東トルキスタン(新疆)
▼ページ最下部
001 2019/12/06(金) 01:51:01 ID:f0iuKwpKC.
ウイグルの民が住む。中共
による侵略を受けている。
返信する
021 2022/12/22(木) 14:30:16 ID:r46LwYiRtg
022 2022/12/22(木) 14:44:33 ID:r46LwYiRtg

トルキスタン
は、今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な名称。
東トルキスタン≒新疆ウイグル自治区
西トルキスタン≒トルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキスタン
#要するに、突厥は匈奴に呑まれて露助と支那により東西で分割した、という事かね?
返信する
023 2022/12/22(木) 14:47:13 ID:r46LwYiRtg
024 2023/02/18(土) 07:40:01 ID:Ncz9i9i4DA
025 2023/02/23(木) 10:50:00 ID:t8zrK8JmBM
026 2023/03/18(土) 11:34:16 ID:uBWOyhqkYk
027 2023/08/31(木) 13:36:16 ID:zzHNbyh8M2

中国の核実験
毛沢東はアメリカによる日本への原子爆弾投下に魅了され・・・
1964年10月16日、東京オリンピックの開催中に初の中国核兵器(コードネーム596)が核爆発に成功した。中国の最初の原爆実験となった。
新疆ウイグル自治区ではロプノール核実験場の付近を中心に、1964年から1996年まで46回の中国による核実験が行われており、放射能汚染による地域住民の健康状態や、農作物への被害が指摘され・・・
セミパラチンスク核実験場は、旧ソビエト連邦のかつての主要な核実験場
旧ソ連初の核実験(1949年8月29日)から、ソビエト連邦の崩壊に伴う閉鎖(1991年8月29日)まで合計456回の核実験に使用された。
1963年大気圏での核実験を禁止する核実験禁止条約(PTBT)が締結され米英ソは部分協定に署名したが、核兵器開発で遅れをとった中国はこの条約に加盟しなかった。
包括的核実験禁止条約(CTBT)は核実験による核爆発を禁止する条約で1996年9月10日、国際連合総会によって採択
地下核実験は地表面下の様々な深度で行われる核実験で核爆発が完全に地中で収束した場合には、放射性降下物は殆ど発生しない
核物質が臨界(持続的に核分裂が起こり、熱や放射性物質が発生する現象)に達する前にデータを取り実験は終了する。
が、臨界の制御に失敗するリスクがあり爆発につながる可能性を孕み・・・
返信する
028 2023/09/08(金) 03:47:58 ID:sxFTlMbL2w
029 2023/12/15(金) 17:16:26 ID:sLHxvv9hvg
[YouTubeで再生]
>>20 チンギス・カンによって建国されたモンゴル帝国は本宗家にあたる大元ウルスの許で緩やかな連合体となりユーラシア大陸はパクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)と言うべき空前の平和と繁栄を享受することになる。しかし、それも14世紀の半ばに入ると地球規模の天災(ペスト)により帝国は崩壊の道を進んでいくことになる。
中央アジア・トルキスタンを支配したチャガタイ・ウルスでは、東部のモグリスターンの草原で遊牧を送る勢力と西部のマー・ワラー・アンナフルで定住生活を送る勢力との間で深刻な亀裂が起きていた。前者は「モグール」、後者は「チャガタイ」と自らを呼んで互いに罵り合っていた。
結果、1340年に東西に分裂する。
西チャガタイ・ハン国は1346年にカザン・ハンがカズガンによって殺害され、以後は有力なアミールが傀儡のハーンを有しながら互いに争う事態になった。東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)ではイミル・ホージャの落胤とも言われるトゥグルク・ティムールが実権を握り、1360年にはマー・ワラー・アンナフルに軍を進めてチャガタイ・ウルスを再統一する。そのトゥグルク・ティムールの許で急速に台頭してきたのがティムールであった。
返信する
030 2023/12/15(金) 17:28:33 ID:sLHxvv9hvg

東西に分裂していたチャガタイ=ハン国は統合して一時勢いを盛り返し、中央アジアに進出した。その軍に従軍していたのがモンゴル=トルコ系の部族出身のティムールであった。ティムールは、チャガタイ=ハン国の内紛に乗じて、チャガタイ=ハン国のハンの一族の一人フセインの軍を破り、フセインを殺害してマー=ワラー=アンナフル唯一最高の実力者であることをクリルタイで承認された。1370年に中央アジア(アム川以北の地、マー=ワラー=アンナフル)にティムール朝を建国、自らアミール(イスラーム教の指導者の意味)を称し、イスラーム教スンナ派を奉じた。「ただしティムールは、自らがチンギス=ハン家の出身者ではないことを考え、名目的なハーンの位には、ソユルガトミッシュというチンギス=ハーン家の一王子を擁立し、自らはチンギス=ハーンの血をひく一女性をめとって、ハーン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。これは、チンギス=ハーン家の血を重んずる遊牧民たちの支持を得るためにとられた方策である。そしてこの時以降、ティムールは終生ハーンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲン、・・・とよばれるが、それは”チンギス=ハーン家の女婿、遊牧貴族ティムール”・・・を意味する雅号である。かつてチンギス=ハンによって破壊されたサマルカンドを復興させ、都とした。ティムールはチンギス=ハンの子孫と称し、その事業を再現することをかかげ、たびたび自らが軍隊を率いて遠征を行った。
返信する
031 2023/12/15(金) 17:40:03 ID:sLHxvv9hvg

まず1380年にはイランに侵入してイスファハーンを占領、すでに衰えていたイル=ハン国を吸収し、イラン高原に支配領域を広げた。さらに北西に向かい、ロシアに入り旧キプチャク=ハン国(ゾロタヤ=オルダと呼ばれていた)の都サライを略奪してその領域も併合した。
1398年、ティムールは方向を転じて南方に向かい、インドに侵入しトゥグルク朝の都デリーを襲撃した。偶像崇拝の異教徒(ヒンドゥー教徒)を甘やかしているインドのムスリム王権に鉄槌を下すという大義名分を掲げていたが、狙いは「インドの富」にあり、同年12月17日にデリー郊外でトゥグルク朝スルタンのマフムードの軍を一蹴して翌日デリーを占領、その時捕虜約10万を足手まといとして虐殺した。デリーで破壊と略奪をほしいままにし、わずか15日間とどまっただけで、翌年1月1日に膨大な戦利品と多数の捕虜を連行してサマルカンドに向かった。このときサマルカンドに連行された多数の職人・技術者はサマルカンドのビビハニム=モスク(金曜モスク)の造営に充てられた。
https://bbs58.meiwasuisan.com/world/1388270635/06... 1400年にはシリアに侵攻してアレッポ、ダマスクスを破壊、次いで小アジアに入ってオスマン帝国のバヤジット1世を1402年にアンカラの戦いで破った。オスマン帝国は一方でバルカン半島に進出していたが、この敗北によって、一時その勢いがそがれることとなった。
返信する
032 2023/12/15(金) 17:45:30 ID:sLHxvv9hvg

ティムールが出現して西アジアの大半を征服したのと同じ頃、東アジアに登場したのが朱元璋(太祖洪武帝)であった。ティムールは明が元を滅ぼしモンゴルを北辺に追いやったことに対し復讐を宣言し、その明で太祖洪武帝が死に、靖難の役の内乱が勃発したことを好機と捕らえ、アンカラの戦いから転じて20万の大軍を東に向け、1404年にパミール高原を越えて進軍させた。そのままいけばモンゴル帝国の再現をめざすティムールと中華帝国の建設をめざす永楽帝という英雄同士の戦いとなるところであったが、ティムールは途中のオトラルで1405年2月18日に病死(異常な寒さをしのぐため酒を飲み過ぎたためといわれる)し、対決は実現しなかった。その墓所は現在のサマルカンドの中心部のグリ=アミール廟として残されている。
現在、ティムールはトルコ系民族の英雄として、特にソ連滅亡後独立したウズベキスタン共和国では国民統合の象徴とされ、タシケント、サマルカンド、生まれ故郷のシャリサーブズに銅像が建てられ、その遺跡が復興されている。
ティムール(1336 - 1405)の征服戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%...
返信する
033 2025/12/31(水) 16:26:35 ID:.nXwUe82N2

遊牧騎馬民は農耕牧畜地の北で各々別々に発祥した
1. 肥沃な三日月地帯の北:古代アーリア人(印欧語族系) 誕生の地: 南ウラルから中央アジアの草原(ステップ)。
特徴: 「技術の先駆者」。馬を家畜化し、スポーク付きの戦車(チャリオット)を世界で初めて実用化しました。(彼らは馬に跨らなかった)
役割: 彼らが南下してヒッタイトやカッシート、ミタンニなどの「戦車王朝」を築き、オリエント世界の勢力図を塗り替えました。
2. 古代中原の北:匈奴(モンゴル・テュルク混成系) 誕生の地: 陰山山脈からモンゴル高原南部。
特徴: 「集団騎馬の完成者」。戦車を捨て、馬に直接またがり、走りながら弓を射る「騎射」に特化しました。
役割: 紀元前3世紀、バラバラだった遊牧諸部族を初めて一つにまとめ上げ、巨大な「遊牧帝国」として中国の統一王朝(秦・漢)と対等に渡り合いました。
3. 数百年後の覚醒:突厥(テュルク系)誕生の地: アルタイ山脈周辺。
特徴: 「重装騎兵と鉄の集団」。阿史那氏をリーダーとする彼らは、高度な製鉄技術を持ち、鐙(あぶみ)を完全に使いこなす強力な重装騎兵を育成しました。
役割: 6世紀、東は中国国境から西はカスピ海に至るまで、ユーラシアの東西を一つの帝国で繋ぎ、その後の「トルコ化」の源流となりました。
返信する
036 2026/01/01(木) 01:26:44 ID:LSosC/m2PI
037 2026/01/01(木) 16:48:55 ID:LSosC/m2PI

時代を下るにつれ、歴史のエンジンは「西からの技術伝播」から「東(モンゴル高原)からの軍事・政治的統合」へと完全に切り替わります。
匈奴は、東方独自の「遊牧国家」という形を作った。
突厥は、その東方のシステムをベースに、西方の交易路を飲み込み、「テュルク化」という形で現代まで続く巨大な文化的足跡を残した。
つまり、当初はスキタイ(西)の影響を受けていた東の世界が、匈奴・突厥を通じて「自分たちのルールで西側を再編した」
返信する
038 2026/01/06(火) 05:12:48 ID:g9zjk2u2KM

清の源の金の女真族はテョソと同じ沿海州に住んでた靺鞨
面白いのは李氏朝鮮が清を胡朝と呼んで小中華思想を唱えだした事
身内と同族なのに
返信する
039 2026/01/12(月) 00:21:46 ID:skQbqcJi8o
>>33 馬を最初に家畜化したのは「肥沃な三日月地帯」の文明(メソポタミアやエジプト)ではありません。
最新の研究(DNA解析や考古学的発見)では、以下の地域が有力視されています。
場所: カザフスタン北部(ボタイ文化)や、ロシア南部のドン川・ヴォルガ川流域(ヤムナ文化に関連)。 紀元前3500年〜3000年頃。
この当時の肥沃な三日月地帯: シュメール文明などが栄えていましたが、彼らが使っていたのは「ロバ」や「ラバ(あるいは野生のロバの仲間)」であり、馬はまだ存在していませんでした。ポントス・カスピ海草原の印欧語を話すヤムナ文化 (Yamnaya Culture)で「馬の家畜化」と「車輪(牛車や荷車)」が生まれその技術が東へ伝わり、モンゴル高原の匈奴(モンゴロイド系主体)に受け継がれ中原世界への脅威が紀元前4世紀〜3世紀頃に本格化。漢に敗れた匈奴は分裂・衰退し
ゲルマン人大移動を引き起こす4世紀後半のフン族はモンゴロイドと印欧語のハイブリッドな軍事集団。アルタイ山脈周辺を起源とするチュルク系民族は柔然(4世紀末〜6世紀中葉)の鍛鉄奴隷がであったが、北魏が分裂し、中原王朝(西魏・北斉など)が互いに争う中で柔然の支配力が低下し、552年突厥の首長土門(ブミン・カガン)は、かつての主人である柔然を打ち破り、一気に草原の覇者となり 6世紀の突厥帝国に至る。
返信する
040 2026/02/26(木) 02:59:01 ID:WiUbnjhEPw

河西回廊(かせいかいろう)の変遷 先史時代から紀元前2世紀のシルクロード形成に至るまで
紀元前3000年以前 新石器時代 仰韶文化(東)などの周縁 石器時代の狩猟採集民が点在。まだ「道」としての認識は薄い。
紀元前2000年頃 青銅器時代初期 斉家文化 ターニングポイント。 西方(中央アジア)から青銅器技術、小麦、羊、牛が伝入。印欧語族系の形質を持つ人々が移動を開始した痕跡。
紀元前1500年頃 商(殷)代 謎の遊牧集団 タリム盆地に「楼蘭の美女」に代表されるアーリア系(白人系)が定着。彼らを介して中原に戦車(チャリオット)技術が伝わる。
紀元前1000年頃 西周時代 西戎(せいじゅう) 周王朝の西側に「西戎」と呼ばれる諸部族が割拠。彼らは遊牧と農耕を混合し、中東・中央アジアの文化を中原に運ぶ「運び屋」となる。
紀元前7世紀〜 春秋時代 スキタイ・月氏 草原の道を通じてスキタイ(イラン系遊牧民)の黄金文化や騎馬技術が流入。河西回廊は月氏(げっし)の勢力圏となり、ヒスイ(玉)の交易路として機能し始める。
紀元前3世紀末 戦国〜秦代 月氏 vs 匈奴 月氏が河西回廊を支配し、中継貿易で巨万の富を得る。しかし北方の匈奴(きょうど)が急速に強大化し、月氏を西方へ追い出す。
紀元前121年 前漢(武帝期) 漢王朝による領有 霍去病(かくきょへい)が匈奴を撃破。漢が河西四郡(酒泉・武威・張掖・敦煌)を設置。ここに「公式なシルクロード」が完成する。
返信する
041 2026/02/26(木) 03:40:37 ID:WiUbnjhEPw
>>40 紀元前139年〜 張騫の西域遠征 武帝に命じられたのが張騫の旅がシルクロード開通の決定打となった。道中で匈奴に捕まり10年以上拘束されましたが、隙を見て脱走し、さらに西へと向かい同盟には失敗しましたが、彼は中央アジア(現在のフェルガナやバクトリア)に、高度な都市文明や「汗血馬(かんけつば)」と呼ばれる優れた馬がいることを発見し、漢に持ち帰りました。
軍事道路から通商路へ 張騫の報告を受けて、武帝は西域へ大規模な軍隊を派遣し、匈奴を追い払って「河西回廊(かせいかいろう)」を確保。砂漠の縁に沿って拠点(敦煌など)を作り、兵士を住まわせて道を守らせ、安全が確保されると、中国の絹と、西方の馬・宝石・ガラス・仏教などが交換されるようになり、自然発生的に巨大な交易ネットワークへと発展しました。
推定 肥沃な三日月地帯からの「文明のリレー」
記録以前の段階で、高い鼻、青い目、あるいは赤毛といった形質を持つ人々(印欧語族系)は、断続的に河西回廊を通り、中国の西端にまで到達していました。彼らは「高度な冶金術(金属加工)」と「麦作」をセットで持ち込んだため、現地民からは「特別な力を持つ民」と見なされた可能性があります。農耕(小麦)の伝播は、一度の大移動ではなく「隣の村への伝授」の繰り返しでした。しかし、その過程で「暦」や「占星術」といった宗教的知見も一緒に移動しました。これが後の道教に繋がるオリエント由来の知識の断片となったと推測されます。
返信する
042 2026/02/26(木) 03:43:40 ID:WiUbnjhEPw
>>40 斉家文化(せいかぶんか)は、中国甘粛省の黄河上流域を中心に紀元前2400年頃から紀元前1900年頃にかけて存在した新石器時代末期から青銅器時代初期の文化。
斉家文化の遺物の多くは、アルタイ山脈地域のSeima-Turbino文化に由来すると考えられている。
斉家文化は黄河上流に古代羌族が作った異民族の文化であったと言われており、中国中原の文化から見れば西のえびす (西戎)の文化である。その理由かどうかは分からないが、 斉家文化に注目する中国の学者が少ないのは治銅の重要な技術の起源が異民族の文化ではなく中原にあってほしいという願望の表れか 文化は中華の中原から周辺の文化に影響を与えたというような思い込み…
http://ushimachi.web.fc2.com/newpage91.ht...
返信する
▲ページ最上部
ログサイズ:37 KB
有効レス数:40
削除レス数:2
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
海外掲示板に戻る 全部
前100
次100 最新50
スレッドタイトル:東トルキスタン(新疆)
レス投稿