アフリカ サラフィー・ジハード
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001 2022/11/02(水) 20:14:40 ID:2FpJDN1zkw
022 2025/04/29(火) 19:47:34 ID:1gKjSc./io
Scramble for Africa
とは、ヨーロッパ諸国がアフリカ大陸のほぼ全域をそれぞれの帝国の一部として支配下に置いたことを指す。
https://bbs16.meiwasuisan.com/history/1677006071/00... アフリカ分割は1880年代に始まった。1914年までに、ヨーロッパ列強の支配を受けなかったアフリカ諸国は、リベリアとエチオピアの2国のみとなった。1870年代、アフリカ人はアフリカの90%を支配していました。ヨーロッパ諸国が支配していた地域はすべて沿岸部でした。しかし、宣教師、探検家、貿易商がアフリカの内陸部とその豊富な原材料について報告すると、状況は変わり始めました。ヨーロッパ人は自国の産業のためにこれらの原材料を求めました。徐々に、イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、ベルギー、イタリアなどの国々がアフリカの領有権を主張し始めました。
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023 2025/04/30(水) 01:17:30 ID:bfLjma2dU6
リベリア共和国
アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国である。
1820年代にアメリカ植民地協会(American Colonization Society)によって建設され、解放奴隷の移住地として設立。
└→アメリカ合衆国との密接な関係が維持され、ヨーロッパ諸国はリベリアに対する植民地支配を躊躇
1822年 - 初のグループが上陸し再移住区を建設する。―中略ー しかしアメリコ・ライベリアン(教化されたアメリカ黒人)は先住民族との間で対立・・・
彼らはアメリカでの奴隷生活を通じて"文明化"されたと感じていたため、大多数を占める現地部族を軽視し差別
一方現地人も奴隷生活の中で白人的価値観を叩き込まれた彼らを「アフリカの文化を知らない黒い白人」とみなして軽蔑―中略ー
リベリアは建国以来、アメリカ合衆国の議会制度にならい、上下院の二院をもつ。
なおリベリアにはマイノリティとして非アフリカ系(レバノン系など)の住民もいるが、アフリカ系黒人の優位を保つため、彼らは黒人では無いと言う理由で、選挙権が与えられていない。
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024 2025/04/30(水) 01:53:24 ID:bfLjma2dU6
エチオピアは、東アフリカに位置する内陸国
人類の発祥地として知られ、豊かな歴史と文化を持ち、古くから独自のキリスト教伝統を持ち、独自の文字体系(ゲエズ文字)、暦を使用しています。
エチオピアの険しい地形は、外部からの侵略を困難にし
1889年から1913年にかけて皇帝を務めたメネリク2世の下で、強力な軍事力を保持していました。
アドワの戦い(1896年)でイタリア軍を撃破し、この勝利がエチオピアの独立を守る決定的な要因となりました。
メネリク2世はヨーロッパ諸国との外交関係を巧みに利用し、エチオピアを公式に独立国として認めさせ、列強の競争を利用して自国の利益を最大化することに成功し、軍事力の近代化にも取り組みました。
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025 2025/04/30(水) 02:10:24 ID:bfLjma2dU6
エチオピアの歴史を辿ると旧約聖書の紀元前10世紀、シバの女王とソロモン王の時代にまで遡り
~かくして帰国した王子は、メネリク一世を名乗り、エチオピアを建国することとなりました。
シバ王国もしくはシェバ王国は旧約聖書に登場するシェバという土地に存在する国家である。ソロモン王とシバの女王の物語で知られている。
日本においては、旧約聖書の『列王記』で言及される「シェバ」、中世アラビア語文献で言及される南アラビアのサバア(サバ)王国、南アラビアの一次史料(碑文)に確認される国家の「シャバァ」は、同一のものと見なされることが多い。
1世紀の人物、フラウィウス・ヨセフス著の『ユダヤ古代誌』によるとシバの女王は「エジプトとエチオピアを支配した女王」となっているが、エジプトやスーダン南方の「セバ(Saba)」と「列王記」の「シバ(Sheba)」との混同あるいは同一視があると指摘されている。紀元前7世紀ごろにサバ王カリブイル・ワタルがアッシリア王に貢納したことを記した碑文より以前、つまりソロモンの活動した紀元前10世紀ごろにシバ国が存在したことを証明する資料や碑文などは発見されていないため史実性は疑問視されている
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026 2025/05/01(木) 03:51:33 ID:tcXzcDzoSE
027 2025/06/19(木) 22:10:36 ID:GNv4/.HHf6
紀元前3000年 コンゴ川流域の森林地帯に狩猟採集民が活動していたことがエジプト王朝の記録
紀元1世紀ごろまでににバントゥー語系話者が鉄器と農耕を持ち込みコンゴ川流域に定住
5世紀ごろバナナが東南アジアから伝わり人口増加、10世紀ごろには初期的な国家が形成された
15世紀ごろコンゴ王国成立
ポルトガル人との接触が始まった15世紀末の前に全盛期を迎え、王のもとには総督を務める王宮長官、最高裁判所判事、警察長官、報道官などの役人が置かれ、人口は400~500万に達し、ポルトガルの当時の200万という人口に比べても大きな数字で、接触したポルトガル人にはヨーロッパの国家と同じように見え驚嘆した。が実際には国王の権力は神聖な王として諸勢力の連合の親族的・宗教的な権威として位置付けられており、分権的で流動的であった。国王はキリスト教を受容した上で、黒人奴隷貿易を行う。
コンゴ川中流から上流にかけての地域はヨーロッパ人が立ち入ることはなく、長く未知の地域となった。1874年に探検したスタンリーによって報告されるまで「暗黒大陸」というイメージで語られることになる
19世紀に衰退し、コンゴ川左岸はベルギー(レオポルド2世)、右岸はフランスの殖民地となる。
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