アフリカ サラフィー・ジハード
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001 2022/11/02(水) 20:14:40 ID:2FpJDN1zkw
002 2022/11/02(水) 20:50:39 ID:2FpJDN1zkw
ジハード主義者(イスラーム過激派)は、95%以上がスンナ派のハンバリー法学派の信徒で占められ
ジハードの目標は「神の法のみに権威を与え、人間が作った法を除去すること」
20世紀のイスラーム思想家で最も影響力があった一人は、過激派の サイイド・クトゥブ と見なされ
クトゥブの解釈では、全世界が反イスラーム的状態にあり、人間の思想が「神の地位を与えられている」。
しかし、世界の政治的抑圧・不道徳・不平等・物欲等は ― 「ユダヤ人」が打倒され、世界が「神の法則」のみによって統治されるようになれば ― 全て終わる。イスラム以外の社会、そこで神以外のものが崇拝されている社会は、どんな社会であれすべてジャーヒリーヤ(イスラーム以前の時代を指す、伝統的、宗教的時代区分で無明時代)だ。イスラム教の生き方でのみ人間は他の人間への隷属から解放される。そして神の崇拝だけに専心し、神からのみ指導を受け、神の御前にだけひれ伏すようになる。イスラムコミュニティーを、その宗教から遠ざけようとする者は、誰もがユダヤ人の手先に違いない。世界の富はユダヤ金融機関の手中に収められていく。これらの全ては説教や論説を通じて為されるものではない。この世で神の力を強奪し、崇拝者を奴隷にした人間は、言葉の力だけでは片付けられない。
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003 2022/11/02(水) 22:57:43 ID:k2QvvSNdVg
>>2 イスラム教も元を辿ればユダ教の分派なのに
その分派の神は認めて本家ユダとは敵対してる現実に違和感を覚えないのかな?
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004 2023/10/21(土) 08:11:06 ID:jlJW0k8k/s
>>3 互いに相手を排除する事が神の教えで絶対であるから
人類が死滅しても殺し合う宗教
何を言っても何をしても無駄
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005 2023/10/21(土) 14:47:20 ID:bbiLsYcnps
己の欲せざる所 人に施すこと勿れ
ちり(おが屑)と梁
こういったダブスタを戒める 黄金律 が理解出来ていないのは何なんだろうな
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007 2023/11/01(水) 20:29:06 ID:pb4QCn5lkQ
ISBN-10 : 4594087361
ISBN-13 : 978-4594087364
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008 2023/11/05(日) 21:09:33 ID:Kfgle06d3g
009 2023/11/11(土) 22:37:14 ID:E2F.CFXW2M
>同胞のイスラム教徒はパレスチナの人々のことなど気にしていない
イスラエル人を除いて、中東の誰もパレスチナ人のことをまったく気にしていません。ヨルダン人は彼らに対して国境を開くつもりはない。エジプト人は彼らに対して国境を開くつもりはない。そして、この地域の他の誰も気にしていない
アラブ人として、あなたは正しい。アラブの指導者たちは独裁者であり、パレスチナのことなど気にも留めず、権力を維持したいだけだ。
そろそろ西側諸国がイスラム教を厳しく見つめ、地域社会でイスラム原理主義者の慣習を受け入れるのをやめる時期が来ていると思います。
イスラム教徒は、いざとなると他の宗派のことなど気にしません。彼らは二流とみなされます。コーランから来たものです。結局のところ、この本には、他の宗派は基本的に詐欺師であり、真の信者だけを残してすべて滅ぶだろうと書かれています。
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010 2023/11/11(土) 22:40:32 ID:E2F.CFXW2M
>>9 続
イスラム教は、パレスチナ人が中東からユダヤ人を排除するのに適切な手段であると判断した。イスラエルが大量虐殺テロに対応するとアラブ諸国が発作を起こすのはこのためだ。これは、ガザ政府、ハマスを経由する資金と物資によるものを除いて、アラブ諸国がパレスチナ人を助けようとしない理由でもある。征服すべき異教徒がもういない場合、イスラム教は自らを食べることに気づくでしょう。スンニ派のサウジアラビアがシーア派イランとどのように提携したかに注目してください。待て、スンニ派はシーア派を死ぬほど嫌っていると思った?彼らはそうします。彼らはユダヤ人をさらに憎むだけだ。神学的観点から見ると、イスラム教にはメッカとメディナの 2 つの段階があります。メッカ段階では、ムハンマドは極度の少数派であった。したがって、当然のことながら、彼は平和と共存を教えました。後期のメディナは、ムハンマドが支配的になり、平和を説かなくなった時期です。このメッカとメディナの区別は、イスラム教徒がヨーロッパへの移民など少数派の場合には、ムハンマドの例に従って平和的に行動することを意味する。そしてイスラム教徒が権力を持ち始めると、再びムハンマドの例に従い、メディナ段階に移行する。イスラム教は文字通り統合失調症です。
世界中のほとんどの人が、パレスチナ人よりもイスラエル系ユダヤ人のような振る舞いをする隣人を好むと思います。
https://www.reddit.com/r/JordanPeterson/comments/17rm...
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011 2023/11/13(月) 09:29:33 ID:gCoMwdme76
012 2023/11/20(月) 23:07:40 ID:cwJ8C5oceY
610年、メッカの商人ムハンマドが40歳でアッラーの啓示を受け、自らを最後の預言者としてカーバ神殿の主神アッラーを唯一の神として崇拝し善行の義務を説き布教を開始。622年にメッカで迫害されメディナに移り、教団(ウンマ)を形成。その結果、諸部族が次々と帰順しアラビア半島の政治的・宗教的統一を果たし、632年に死去した。その言行録『コーラン』はイスラーム教の聖典となった。死去後、ウンマを指導するムハンマドの正統後継者カリフを誰にするか対立があり、次のウマイヤ家のムアーウィヤがカリフになると教団の分裂が生じることとなる。
正統力リフ時代632~661 ジハード(聖戦)が次々と展開され多くの宗派に分裂したが(まとめてハワーリジュ派)ウマイヤ朝の圧力を受け消滅し現存するものは穏健派のイバード派。
ウマイヤ朝 661~750 ウマイヤ家がダマスクスを都と版図を拡大。692年エルサレムに岩のドームを建設。しかしアラブ人優位の政策から生まれた「ウンマは一つ」という原理と矛盾するアラブと非アラブが対立、ウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現により分裂がはじまり8世紀にアッバース家によって倒された。
アッバース朝750~1258年 アッバース家が新都バグダードを中心に広大な領域を支配。最後はモンゴルに滅ぼされた。
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013 2023/11/20(月) 23:23:14 ID:cwJ8C5oceY
十字軍/十字軍運動 11世紀末~13世紀末までのキリスト教世界の膨張運動の一つ。1095年のクレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱され、1096年の第1回から、一般に1270年の第7回までとされる。一時はイェルサレム王国を建てるなど聖地回復に成功したが、結局はイスラーム側の反撃によって失敗した。東方貿易の活発化、イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となった。
キリスト教側が聖地回復を掲げて起こした十字軍は、アラブ側から見れば明らかな侵略であった。その後の千年に及び反西欧の怨念が残ることとなった。キリスト教徒側から起こされた十字軍運動が、アラブ世界(必ずしもアラブ人だけではなく、トルコ人、イラン人、クルド人なども含む)にどのように受け止められ、またその攻撃と反撃の実態がどのようであったかを詳細に跡づけたアミン・マアフーフの『アラブの見た十字軍』は、序章を「千年の対立ここに始まる」と名づけ、最終章の「アラブのコンプレックス」で次のように締めくくっている。
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014 2023/11/20(月) 23:30:40 ID:cwJ8C5oceY
>>13 続『アラブの見た十字軍』p.399引用>西ヨーロッパにとって十字軍時代が真の経済的・文化的革命の糸口であったのに対し、オリエントにおいてはこれらの聖戦(ジハード)は衰退と反開化主義の長い世紀につうじてしまう。四方から攻められてムスリム世界はちじみあがり、過度に敏感に守勢的に狭量に非生産的になるのだが、このような態度は世界的な規模の発展が続くにつれて一層ひどくなり発展から疎外されていると思い込む。以来進歩とは相手側のものになる。近代化も他人のものだ。西洋の象徴である近代化を拒絶してその文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというのか。それとも反対に自分のアイデンティティを失う危険を冒しても、近代化の道を断固として進むべきか。イランもトルコもまたアラブ世界もこのジレンマの解決に成功していない。そのために今日でも上からの西洋化という局面とまったく排外的で極端な教条主義という局面とのあいだにしばしば急激な交代が続いて見られるのである。(引用終) 指摘の通り現代でもイスラエルは新たな十字軍国家になぞらえられ、アラブの指導者はサラディンやイェルサレム奪回の栄光を口にする。21世紀が10年以上たっても解決も道筋はついていない。そろそろ西洋と東洋、キリスト教とイスラーム教という対立軸を克服し互いが否定し合うのでなく、そのアイデンティティを認め合う時代ではないだろうか。しかし「そして疑いもなく、この両世界の分裂は十字軍にさかのぼり、アラブは今日でもなお意識の底で、これを一種の強姦のように受け止めている。」という著者の最後の一文の重みは忘れてはならないだろう。
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016 2023/11/24(金) 22:50:30 ID:CHI.a5x5dc
[YouTubeで再生] >>2 サイイド・クトゥブ 1906-1966 エジプト
わずか10歳にしてクルアーンをすべて暗誦→学校の先生→1948教育システムの調査のため渡米→1940年代後半にコロラド州グリーリーで英語を勉強していた褐色人種として彼は多くの偏見に遭遇した。彼はアメリカ人男性と女性の性的開放性の緩慢さ(彼の故郷であるアシュートとは程遠い)に愕然とした。2年後米国を離れる前ますます保守的になっていたとはいえ、彼は依然として「服装、クラシック音楽やハリウッド映画への愛情など、多くの点で西洋人でした。彼はチャールズ・ダーウィンの著作を翻訳で読んでおり、アルバート・アインシュタイン、バイロン卿、パーシー・ビッシュ・シェリーらはフランス文学、特にヴィクトル・ユーゴーに没頭していた。→エジプトへ帰国する途上ヨーロッパも旅をしそこで『私が見たアメリカ』という本を出版した。その中で多くを辛辣に批判した。帰国すると教育省を辞職し1950年代にムスリム同胞団に加わった。国家転覆を謀った容疑で1966年絞首刑に処された。
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017 2023/12/23(土) 14:08:16 ID:6jp6Cv7Ubk
Q.豚肉を食べると何がそんなに悪いのでしょうか?
A.ハリスは『神聖な牛と忌まわしい豚』の中で、文化的な食のタブーは人々の福祉を損なう動物を食べることを防ぐために進化する(見方によっては神聖な源によって与えられる)と示唆。宗教上の食べ物のタブーには実際的な目的:ユダヤ教とイスラム教の宗教法は両方とも、暑くて乾燥した気候の牧畜民の間で生まれました。資源の少ない土地で人間と食料を争う動物を維持するには多大な費用がかかる。ヤギとヒツジはどちらも反芻動物であり植物を処理するために複数の胃を持っており彼らは人間にとって価値のない草や低木で生きることができるが、豚は反芻動物ではないため人間が食べるような食物を必要とし飼育は貴重な資源を人々から奪い、また毛皮や体毛がなく太陽から皮膚を守るために泥の層に依存しますが砂漠で最も避けたいことは豚が転がれる泥のプールを維持するために貴重な水を費やすことです。養豚は部族にとって非常に破壊的なものなので完全に排除するという宗教的タブーが命じられ進化した。興味深い余談ですが、ユダヤ人はひづめが分かれていて反芻する哺乳類のみを食べることが許可されています。豚は反芻しないのでアウトです。しかし反芻動物は通常ひづめが分かれているのになぜわざわざ 2 番目の条件を追加したかといえば、それはラクダをメニューから外すためで、砂漠環境での輸送と労働に重要で飢餓でもラクダが殺されないことが必要でした。ハリス氏はこれがユダヤ人の禁止食品リストに2番目の条件が含まれた理由であると示唆しています。
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018 2024/01/29(月) 02:10:08 ID:Ftz5BQTvYM
019 2025/01/03(金) 03:01:19 ID:VTyly9Yke.
020 2025/03/09(日) 00:56:41 ID:FX5RGBgmLc
021 2025/04/29(火) 19:38:05 ID:1gKjSc./io
1492年にスペインの派遣したコロンブス艦隊が西回りで新世界を発見し、スペインとポルトガルは勢力圏を分割(トルデシリャス条約)が締結され、アフリカ大陸はすっぽりポルトガル勢力圏となった。15世紀のポルトガルのエンリケ航海王子の時代に、さかんにアフリカ西海岸沿いに南下し、香辛料・象牙・金、そして黒人奴隷を手に入れるために、この地方を独占的に支配し、エルミナ要塞・サン=トメ島の他に、コンゴ王国にも進出して奴隷積出港としてルアンダ港(現在のアンゴラの首都)を建設した。しかし、早くも16世紀後半になると、オランダ、フランスとイギリスが盛んにギニア湾岸とその付近のアフリカ西岸に進出し、ポルトガルの独占は破綻していく
穀物海岸(グレインコースト)=現在のシエラレオネ・リベリア(穀物というのは誤訳で、胡椒のこと。胡椒海岸が正しい。)
象牙海岸(アイボリーコースト)=現在のコートジボワール(コートジボワールはフランス語で象牙海岸のこと)
黄金海岸(ゴールドコースト)=現在のガーナ(ポルトガルが金の積み出し港として最初に築き、オランダが奪取して奴隷の積み出し港としたエルミナ要塞がある)
奴隷海岸(スレイブコースト)=現在のベナン(ダホメ)・ナイジェリア(ベニンを含む)。イギリスが奴隷積み出し港の拠点としたケープコースト砦がある
奴隷商人は現地人部族に旧式の武器などを渡し、他の部族を襲わせ、武器の対価として奴隷を獲得し(三角貿易)15~19世紀、アフリカの西部海岸、ギニア湾沿岸から多数の奴隷が新大陸などに移送された。
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022 2025/04/29(火) 19:47:34 ID:1gKjSc./io
Scramble for Africa
とは、ヨーロッパ諸国がアフリカ大陸のほぼ全域をそれぞれの帝国の一部として支配下に置いたことを指す。
https://bbs16.meiwasuisan.com/history/1677006071/00... アフリカ分割は1880年代に始まった。1914年までに、ヨーロッパ列強の支配を受けなかったアフリカ諸国は、リベリアとエチオピアの2国のみとなった。1870年代、アフリカ人はアフリカの90%を支配していました。ヨーロッパ諸国が支配していた地域はすべて沿岸部でした。しかし、宣教師、探検家、貿易商がアフリカの内陸部とその豊富な原材料について報告すると、状況は変わり始めました。ヨーロッパ人は自国の産業のためにこれらの原材料を求めました。徐々に、イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、ベルギー、イタリアなどの国々がアフリカの領有権を主張し始めました。
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023 2025/04/30(水) 01:17:30 ID:bfLjma2dU6
リベリア共和国
アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国である。
1820年代にアメリカ植民地協会(American Colonization Society)によって建設され、解放奴隷の移住地として設立。
└→アメリカ合衆国との密接な関係が維持され、ヨーロッパ諸国はリベリアに対する植民地支配を躊躇
1822年 - 初のグループが上陸し再移住区を建設する。―中略ー しかしアメリコ・ライベリアン(教化されたアメリカ黒人)は先住民族との間で対立・・・
彼らはアメリカでの奴隷生活を通じて"文明化"されたと感じていたため、大多数を占める現地部族を軽視し差別
一方現地人も奴隷生活の中で白人的価値観を叩き込まれた彼らを「アフリカの文化を知らない黒い白人」とみなして軽蔑―中略ー
リベリアは建国以来、アメリカ合衆国の議会制度にならい、上下院の二院をもつ。
なおリベリアにはマイノリティとして非アフリカ系(レバノン系など)の住民もいるが、アフリカ系黒人の優位を保つため、彼らは黒人では無いと言う理由で、選挙権が与えられていない。
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024 2025/04/30(水) 01:53:24 ID:bfLjma2dU6
エチオピアは、東アフリカに位置する内陸国
人類の発祥地として知られ、豊かな歴史と文化を持ち、古くから独自のキリスト教伝統を持ち、独自の文字体系(ゲエズ文字)、暦を使用しています。
エチオピアの険しい地形は、外部からの侵略を困難にし
1889年から1913年にかけて皇帝を務めたメネリク2世の下で、強力な軍事力を保持していました。
アドワの戦い(1896年)でイタリア軍を撃破し、この勝利がエチオピアの独立を守る決定的な要因となりました。
メネリク2世はヨーロッパ諸国との外交関係を巧みに利用し、エチオピアを公式に独立国として認めさせ、列強の競争を利用して自国の利益を最大化することに成功し、軍事力の近代化にも取り組みました。
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025 2025/04/30(水) 02:10:24 ID:bfLjma2dU6
エチオピアの歴史を辿ると旧約聖書の紀元前10世紀、シバの女王とソロモン王の時代にまで遡り
~かくして帰国した王子は、メネリク一世を名乗り、エチオピアを建国することとなりました。
シバ王国もしくはシェバ王国は旧約聖書に登場するシェバという土地に存在する国家である。ソロモン王とシバの女王の物語で知られている。
日本においては、旧約聖書の『列王記』で言及される「シェバ」、中世アラビア語文献で言及される南アラビアのサバア(サバ)王国、南アラビアの一次史料(碑文)に確認される国家の「シャバァ」は、同一のものと見なされることが多い。
1世紀の人物、フラウィウス・ヨセフス著の『ユダヤ古代誌』によるとシバの女王は「エジプトとエチオピアを支配した女王」となっているが、エジプトやスーダン南方の「セバ(Saba)」と「列王記」の「シバ(Sheba)」との混同あるいは同一視があると指摘されている。紀元前7世紀ごろにサバ王カリブイル・ワタルがアッシリア王に貢納したことを記した碑文より以前、つまりソロモンの活動した紀元前10世紀ごろにシバ国が存在したことを証明する資料や碑文などは発見されていないため史実性は疑問視されている
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026 2025/05/01(木) 03:51:33 ID:tcXzcDzoSE
027 2025/06/19(木) 22:10:36 ID:GNv4/.HHf6
紀元前3000年 コンゴ川流域の森林地帯に狩猟採集民が活動していたことがエジプト王朝の記録
紀元1世紀ごろまでににバントゥー語系話者が鉄器と農耕を持ち込みコンゴ川流域に定住
5世紀ごろバナナが東南アジアから伝わり人口増加、10世紀ごろには初期的な国家が形成された
15世紀ごろコンゴ王国成立
ポルトガル人との接触が始まった15世紀末の前に全盛期を迎え、王のもとには総督を務める王宮長官、最高裁判所判事、警察長官、報道官などの役人が置かれ、人口は400~500万に達し、ポルトガルの当時の200万という人口に比べても大きな数字で、接触したポルトガル人にはヨーロッパの国家と同じように見え驚嘆した。が実際には国王の権力は神聖な王として諸勢力の連合の親族的・宗教的な権威として位置付けられており、分権的で流動的であった。国王はキリスト教を受容した上で、黒人奴隷貿易を行う。
コンゴ川中流から上流にかけての地域はヨーロッパ人が立ち入ることはなく、長く未知の地域となった。1874年に探検したスタンリーによって報告されるまで「暗黒大陸」というイメージで語られることになる
19世紀に衰退し、コンゴ川左岸はベルギー(レオポルド2世)、右岸はフランスの殖民地となる。
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