アフリカ サラフィー・ジハード
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001 2022/11/02(水) 20:14:40 ID:2FpJDN1zkw
010 2023/11/11(土) 22:40:32 ID:E2F.CFXW2M
>>9続
イスラム教は、パレスチナ人が中東からユダヤ人を排除するのに適切な手段であると判断した。イスラエルが大量虐殺テロに対応するとアラブ諸国が発作を起こすのはこのためだ。これは、ガザ政府、ハマスを経由する資金と物資によるものを除いて、アラブ諸国がパレスチナ人を助けようとしない理由でもある。征服すべき異教徒がもういない場合、イスラム教は自らを食べることに気づくでしょう。スンニ派のサウジアラビアがシーア派イランとどのように提携したかに注目してください。待て、スンニ派はシーア派を死ぬほど嫌っていると思った?彼らはそうします。彼らはユダヤ人をさらに憎むだけだ。神学的観点から見ると、イスラム教にはメッカとメディナの 2 つの段階があります。メッカ段階では、ムハンマドは極度の少数派であった。したがって、当然のことながら、彼は平和と共存を教えました。後期のメディナは、ムハンマドが支配的になり、平和を説かなくなった時期です。このメッカとメディナの区別は、イスラム教徒がヨーロッパへの移民など少数派の場合には、ムハンマドの例に従って平和的に行動することを意味する。そしてイスラム教徒が権力を持ち始めると、再びムハンマドの例に従い、メディナ段階に移行する。イスラム教は文字通り統合失調症です。
世界中のほとんどの人が、パレスチナ人よりもイスラエル系ユダヤ人のような振る舞いをする隣人を好むと思います。
https://www.reddit.com/r/JordanPeterson/comments/17rm...
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011 2023/11/13(月) 09:29:33 ID:gCoMwdme76
012 2023/11/20(月) 23:07:40 ID:cwJ8C5oceY
610年、メッカの商人ムハンマドが40歳でアッラーの啓示を受け、自らを最後の預言者としてカーバ神殿の主神アッラーを唯一の神として崇拝し善行の義務を説き布教を開始。622年にメッカで迫害されメディナに移り、教団(ウンマ)を形成。その結果、諸部族が次々と帰順しアラビア半島の政治的・宗教的統一を果たし、632年に死去した。その言行録『コーラン』はイスラーム教の聖典となった。死去後、ウンマを指導するムハンマドの正統後継者カリフを誰にするか対立があり、次のウマイヤ家のムアーウィヤがカリフになると教団の分裂が生じることとなる。
正統力リフ時代632~661 ジハード(聖戦)が次々と展開され多くの宗派に分裂したが(まとめてハワーリジュ派)ウマイヤ朝の圧力を受け消滅し現存するものは穏健派のイバード派。
ウマイヤ朝 661~750 ウマイヤ家がダマスクスを都と版図を拡大。692年エルサレムに岩のドームを建設。しかしアラブ人優位の政策から生まれた「ウンマは一つ」という原理と矛盾するアラブと非アラブが対立、ウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現により分裂がはじまり8世紀にアッバース家によって倒された。
アッバース朝750~1258年 アッバース家が新都バグダードを中心に広大な領域を支配。最後はモンゴルに滅ぼされた。
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013 2023/11/20(月) 23:23:14 ID:cwJ8C5oceY
十字軍/十字軍運動 11世紀末~13世紀末までのキリスト教世界の膨張運動の一つ。1095年のクレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱され、1096年の第1回から、一般に1270年の第7回までとされる。一時はイェルサレム王国を建てるなど聖地回復に成功したが、結局はイスラーム側の反撃によって失敗した。東方貿易の活発化、イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となった。
キリスト教側が聖地回復を掲げて起こした十字軍は、アラブ側から見れば明らかな侵略であった。その後の千年に及び反西欧の怨念が残ることとなった。キリスト教徒側から起こされた十字軍運動が、アラブ世界(必ずしもアラブ人だけではなく、トルコ人、イラン人、クルド人なども含む)にどのように受け止められ、またその攻撃と反撃の実態がどのようであったかを詳細に跡づけたアミン・マアフーフの『アラブの見た十字軍』は、序章を「千年の対立ここに始まる」と名づけ、最終章の「アラブのコンプレックス」で次のように締めくくっている。
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014 2023/11/20(月) 23:30:40 ID:cwJ8C5oceY
>>13続『アラブの見た十字軍』p.399引用>西ヨーロッパにとって十字軍時代が真の経済的・文化的革命の糸口であったのに対し、オリエントにおいてはこれらの聖戦(ジハード)は衰退と反開化主義の長い世紀につうじてしまう。四方から攻められてムスリム世界はちじみあがり、過度に敏感に守勢的に狭量に非生産的になるのだが、このような態度は世界的な規模の発展が続くにつれて一層ひどくなり発展から疎外されていると思い込む。以来進歩とは相手側のものになる。近代化も他人のものだ。西洋の象徴である近代化を拒絶してその文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというのか。それとも反対に自分のアイデンティティを失う危険を冒しても、近代化の道を断固として進むべきか。イランもトルコもまたアラブ世界もこのジレンマの解決に成功していない。そのために今日でも上からの西洋化という局面とまったく排外的で極端な教条主義という局面とのあいだにしばしば急激な交代が続いて見られるのである。(引用終) 指摘の通り現代でもイスラエルは新たな十字軍国家になぞらえられ、アラブの指導者はサラディンやイェルサレム奪回の栄光を口にする。21世紀が10年以上たっても解決も道筋はついていない。そろそろ西洋と東洋、キリスト教とイスラーム教という対立軸を克服し互いが否定し合うのでなく、そのアイデンティティを認め合う時代ではないだろうか。しかし「そして疑いもなく、この両世界の分裂は十字軍にさかのぼり、アラブは今日でもなお意識の底で、これを一種の強姦のように受け止めている。」という著者の最後の一文の重みは忘れてはならないだろう。
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016 2023/11/24(金) 22:50:30 ID:CHI.a5x5dc
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>>2 サイイド・クトゥブ 1906-1966 エジプト
わずか10歳にしてクルアーンをすべて暗誦→学校の先生→1948教育システムの調査のため渡米→1940年代後半にコロラド州グリーリーで英語を勉強していた褐色人種として彼は多くの偏見に遭遇した。彼はアメリカ人男性と女性の性的開放性の緩慢さ(彼の故郷であるアシュートとは程遠い)に愕然とした。2年後米国を離れる前ますます保守的になっていたとはいえ、彼は依然として「服装、クラシック音楽やハリウッド映画への愛情など、多くの点で西洋人でした。彼はチャールズ・ダーウィンの著作を翻訳で読んでおり、アルバート・アインシュタイン、バイロン卿、パーシー・ビッシュ・シェリーらはフランス文学、特にヴィクトル・ユーゴーに没頭していた。→エジプトへ帰国する途上ヨーロッパも旅をしそこで『私が見たアメリカ』という本を出版した。その中で多くを辛辣に批判した。帰国すると教育省を辞職し1950年代にムスリム同胞団に加わった。国家転覆を謀った容疑で1966年絞首刑に処された。
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017 2023/12/23(土) 14:08:16 ID:6jp6Cv7Ubk
Q.豚肉を食べると何がそんなに悪いのでしょうか?
A.ハリスは『神聖な牛と忌まわしい豚』の中で、文化的な食のタブーは人々の福祉を損なう動物を食べることを防ぐために進化する(見方によっては神聖な源によって与えられる)と示唆。宗教上の食べ物のタブーには実際的な目的:ユダヤ教とイスラム教の宗教法は両方とも、暑くて乾燥した気候の牧畜民の間で生まれました。資源の少ない土地で人間と食料を争う動物を維持するには多大な費用がかかる。ヤギとヒツジはどちらも反芻動物であり植物を処理するために複数の胃を持っており彼らは人間にとって価値のない草や低木で生きることができるが、豚は反芻動物ではないため人間が食べるような食物を必要とし飼育は貴重な資源を人々から奪い、また毛皮や体毛がなく太陽から皮膚を守るために泥の層に依存しますが砂漠で最も避けたいことは豚が転がれる泥のプールを維持するために貴重な水を費やすことです。養豚は部族にとって非常に破壊的なものなので完全に排除するという宗教的タブーが命じられ進化した。興味深い余談ですが、ユダヤ人はひづめが分かれていて反芻する哺乳類のみを食べることが許可されています。豚は反芻しないのでアウトです。しかし反芻動物は通常ひづめが分かれているのになぜわざわざ 2 番目の条件を追加したかといえば、それはラクダをメニューから外すためで、砂漠環境での輸送と労働に重要で飢餓でもラクダが殺されないことが必要でした。ハリス氏はこれがユダヤ人の禁止食品リストに2番目の条件が含まれた理由であると示唆しています。
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018 2024/01/29(月) 02:10:08 ID:Ftz5BQTvYM
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