イラク共和国
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西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。
当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。
サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。
これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。
8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。
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当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。
サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。
これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。
8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。
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サイクス・ピコ協定
第一次世界大戦中の1916年5月、イギリス・ロシア・フランス間で結ばれたの西アジアの旧オスマン帝国領分割に関する秘密協定。ロシアが革命で脱落し英仏に国間の協定となった。このように勝手に英仏によって線びきされたことに対し、アラブ民族による反対運動が盛り上がり、とくにイラク南部のシーア派を中心とした大規模な反乱が起こった。そこでイギリスは反乱を抑えるため1921年3月にカイロで会議を開催し、シリアのダマスクスからフランス軍に追われていたファイサル(ヒジャース王国のフサインの三男)を国王として迎えるという妥協策を画策した。こうして、1921年イギリスの委任統治の下でハーシム家のファイサルを国王とするイラク王国が成立した。
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アラブ諸国の独立 第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国領の分割案では、アラブ系民族居住地域は戦勝国であるイギリスとフランスによって委任統治されることとなった。両国の利害に従って線引きされ、1920年から委任統治が始まったが、アラブ系民族の独立を求める声も強くなり、両国は自国の影響力を残したままで、アラブ国家の独立を認める方策をとらざるを得なくなっていった。それによって現在見るような西アジアの中東諸国、イラク、シリア、レバノン、ヨルダン、そしてパレスチナが生まれることになるが、これらの国家の境界線の設定はイギリス・フランス両国の「勝手な線引き」(帝国主義的分割)によってなされたため、宗教分布・民族分布の実態と一致せず、現在に至るまで紛争の原因となっている。
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1955年には対共産圏軍事同盟であるバグダード条約機構(METO)に加盟し、本部はイラクのバグダードに置かれた。トルコ・イラク王国・イギリス・パキスタン・イランの5ヵ国で結成
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イラン=イラク戦争1980~88年、イラン革命直後のイランに対しサダム=フセイン独裁下のイラクが侵攻して戦争となった。宗教的対立、石油資源をめぐる対立が背景にあり、アメリカなどはイラクを支援した。イランが反撃してイラクに侵攻し戦争は長期化、その過程でイラク軍は親イランのクルド人に対し毒ガスを使用した。
イラン=イラク戦争後、多額の負債を抱えたイラクのサダム=フセイン政権は1990年8月2日未明、突如イラク軍がクウェートに侵攻、わずか8時間でその全土を制圧した。 イラクには1961年のクウェートの独立の際にも、時のカセム政権がその併合を唱えて侵攻をしかけたこともあり、領土の一部をイギリスに奪われたという主張があった。サダム=フセイン大統領は、国内におけるイラン=イラク戦争からの復員兵の不満がくすぶり、クウェートが原油価格引き下げによって販路をひろげていることにも反発を強めていた。クウェートは1961年にイギリスの保護領から独立していたが、豊富な石油資源を握る王族が支配する首長制国家であり、憲法と議会は存在したが全く機能せず、イラクの侵攻を食い止める力が無かった。
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イラン=イラク戦争後、多額の負債を抱えたイラクのサダム=フセイン政権は1990年8月2日未明、突如イラク軍がクウェートに侵攻、わずか8時間でその全土を制圧した。 イラクには1961年のクウェートの独立の際にも、時のカセム政権がその併合を唱えて侵攻をしかけたこともあり、領土の一部をイギリスに奪われたという主張があった。サダム=フセイン大統領は、国内におけるイラン=イラク戦争からの復員兵の不満がくすぶり、クウェートが原油価格引き下げによって販路をひろげていることにも反発を強めていた。クウェートは1961年にイギリスの保護領から独立していたが、豊富な石油資源を握る王族が支配する首長制国家であり、憲法と議会は存在したが全く機能せず、イラクの侵攻を食い止める力が無かった。
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湾岸戦争1991年1~2月
クウェート侵攻に対してただちに国際世論の反発が高まり、国連の安全保障理事会がイラク軍に対し撤退勧告を行い、さらに経済制裁を決定した。しかしイラクが撤退に応じず、「クウェートを19番目の州とする」と宣言して併合したため、米ブッシュ(G.H.W=父)大統領は武力行使を決定し、多国籍軍を編成して、1991年1月17日にイラク攻撃を開始、湾岸戦争となった。戦闘はほぼ100時間で決着が付き、イラクが国連決議を受け入れる形で敗北し、クウェートから撤退した。
日本は湾岸戦争に際して、多国籍軍に加わることはなかったが総額110億ドルの資金を提供するという経済的支援を行った。この額は国民一人あたり約1万円に相当する巨額であったが、国内外から日本はお金の提供という貢献だけでいいのか、「血を流す」貢献も必要なのではないか、という議論が持ち上がった。自民党政府はそれらの声に押されて「自衛隊の海外派遣」の検討を開始、湾岸戦争の陸上戦闘は終わっていたが、同年6月、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣した。これは最初の自衛隊海外派遣であった。さらに、1992年には国連平和維持協力法(PKO法)が成立し、国連の平和維持活動(PKO)への参加の道が開いた。戦後一貫して専守防衛に徹していた日本が、初めて自衛隊を海外に出すという転換を遂げ、「国際貢献」という美名の下に大転換がはかられたのが湾岸戦争の日本にもたらした影響であった。
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クウェート侵攻に対してただちに国際世論の反発が高まり、国連の安全保障理事会がイラク軍に対し撤退勧告を行い、さらに経済制裁を決定した。しかしイラクが撤退に応じず、「クウェートを19番目の州とする」と宣言して併合したため、米ブッシュ(G.H.W=父)大統領は武力行使を決定し、多国籍軍を編成して、1991年1月17日にイラク攻撃を開始、湾岸戦争となった。戦闘はほぼ100時間で決着が付き、イラクが国連決議を受け入れる形で敗北し、クウェートから撤退した。
日本は湾岸戦争に際して、多国籍軍に加わることはなかったが総額110億ドルの資金を提供するという経済的支援を行った。この額は国民一人あたり約1万円に相当する巨額であったが、国内外から日本はお金の提供という貢献だけでいいのか、「血を流す」貢献も必要なのではないか、という議論が持ち上がった。自民党政府はそれらの声に押されて「自衛隊の海外派遣」の検討を開始、湾岸戦争の陸上戦闘は終わっていたが、同年6月、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣した。これは最初の自衛隊海外派遣であった。さらに、1992年には国連平和維持協力法(PKO法)が成立し、国連の平和維持活動(PKO)への参加の道が開いた。戦後一貫して専守防衛に徹していた日本が、初めて自衛隊を海外に出すという転換を遂げ、「国際貢献」という美名の下に大転換がはかられたのが湾岸戦争の日本にもたらした影響であった。
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2001年9・11同時多発テロ以降、テロとの戦争を宣言、アフガニスタンを攻撃してタリバン政権を倒した米G.W.ブッシュ(子)政権は、2002年1月にイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しし、世界平和に対する脅威と人権抑圧を続けているとして非難した。特にイラクは1991年の湾岸戦争後、フセイン政権は経済制裁を受けながら核開発疑惑に対する国連の査察を拒否しているとして、査察受け入れを強く要求した。一方のイラクのサダム=フセイン大統領は、湾岸戦争後国内の反対勢力を厳しく弾圧し、ますます独裁権力を強めていた。
イラク戦争 2003年、米G.W.ブッシュ(子)大統領が、イラクのサダム=フセイン政権が大量破壊兵器を保持しているとして3月に攻撃に踏み切り、米軍主体の「有志連合」軍が侵攻、4月バクダードに突入、フセイン政権は倒壊した。5月にはイラク軍の組織的な抵抗は終わり、ブッシュ大統領は勝利宣言を行った。サダム=フセイン自身はその後も潜伏を続け、同年12月にようやく捕捉された。
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イラク戦争 2003年、米G.W.ブッシュ(子)大統領が、イラクのサダム=フセイン政権が大量破壊兵器を保持しているとして3月に攻撃に踏み切り、米軍主体の「有志連合」軍が侵攻、4月バクダードに突入、フセイン政権は倒壊した。5月にはイラク軍の組織的な抵抗は終わり、ブッシュ大統領は勝利宣言を行った。サダム=フセイン自身はその後も潜伏を続け、同年12月にようやく捕捉された。
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「赤い夜明け作戦」により2003年12月13日に拘束されたサダム=フセインは、米軍収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置された。ここでのサッダームの生活は、主に詩の創作、庭仕事、読書、聖典クルアーンの朗読に占められ、レバノン系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想によるとピロはサッダームの信頼を得、大統領在任時とほとんど変わらない生活を送っていた。歴代の米大統領の評価についてピロが質問すると、ブッシュ父子を嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、ロナルド・レーガンやビル・クリントンについては尊敬の念すら示したという。また湾岸戦争についてはアメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、2つの戦争における自らの対応は戦略的誤りであったとした。一方1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、クウェート側代表から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい「罰を下したかった」と述べたという。
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サダム=フセイン元イラク大統領に対する裁判は、国際法廷ではなくバグダードのイラク高等法廷で2005年10月から始まり、シーア派などに対する「人道に対する罪」を犯したとして2006年12月30日に処刑された。
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モサラベ語、あるいはアンダルス・ロマンス語、またはロマンダルシ語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B5%E3%83%...
8世紀から15世紀にかけて、イベリア半島の主に南部の住民によって話されたロマンス語の総称。モサラベ語はイスラム教徒支配地域のアル=アンダルスで発達した言語で、そこに暮らすキリスト教徒住民であるモサラベによって話された。その後、キリスト教徒諸王国によるレコンキスタによって、その上位言語となった諸言語(ガリシア・ポルトガル語、レオン語、カスティーリャ語、ナバーラ・アラゴン語、カタルーニャ語)によって徐々に置き換えられ、15世紀にはほぼ消滅した。しかしながら、現在でも日常の言語使用の中にその残滓を見ることができる。表記にはアラビア文字が使用されアルハミーア(al ‘aǧamíyya)と呼ばれる→アルハミヤー文学
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ISIS:イラク・シリアのイスラム国/イラク・シャームのイスラム国 (シャームは歴史的大シリア地域を表すアラビア語の異称)
イスラム国家樹立運動を行う過激派テロ組織。イラク、シリア両国の国境付近を中心として一時は両国の相当部分を武力制圧して「国家」樹立を宣言し、シリア領内のラッカを「首都」と宣言したが、承認を行った国家は無い。
2014年8月22日、チャック・ヘーゲル国防長官は記者会見で、ISILの特徴として野蛮な思想と洗練された軍事力、潤沢な資金を併せ持つことを挙げ、「これまでに見たどの組織よりも洗練され、資金も豊富で、単なるテロ組織を超えている」と評した
イラク、イラン、シリア弱体化を狙うサウジアラビア王族のバンダル・ビン・スルターンが影から資金提供をしていた。ただしバンダルが解任された2014年頃からそれまでISILを静観してきたサウジアラビアもISILを非難するようになった。
全盛期の最高指導者は アブー・バクル・アル=バグダーディー(1971- 2019)イラクのサーマッラーに生まれ、2014年にカリフを自称、同年米主導の多国籍軍「生来の決意作戦」により弱体化した。
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リュートはギターバイオリンなどの起源
紀元前 3100 年以前に古代メソポタミアで発生し、ヨーロッパには主にアンダルシア経由で入ってきました
https://en.wikipedia.org/wiki/Andalusi_classical_musi...
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クルディスタンとは、トルコ、シリア、イラク、イランの4カ国に跨った地域で大勢のクルド人が少数民族として各国に住み、数十年間にわたって抑圧を受けてきた。各国のクルド人らは、程度は異なるが自治権を求めている。
クルド人の民族主義はオスマン帝国末期の1890年代に高まった。第1次大戦後、1920年代のセーブル条約によりクルド人の独立が約束された。しかし3年後、トルコの初代大統領アタチュルクが合意を破棄。24年批准のローザンヌ条約により、クルド人は中東の新たな国々に分断された。
トルコ・クルド紛争 とは主にトルコ国内において見られるトルコ政府とクルド人の武力を伴う紛争
この紛争はトルコ独立戦争後、即ちオスマン帝国から現代のトルコへの過渡期に始まり今日まで続く
根底にはトルコ人に対するマイノリティであるクルド人のナショナリズムがあり、場合によってはクルド人によるトルコへのテロと表現され、また時にはトルコの内戦であるとされる。トルコは国内のクルド人反政府勢力の拠点がシリア側に存在するとして2016年以降、複数回にわたり内戦で政治的空白区になっていたシリア北部に侵攻。武力勢力の掃討作戦を実施してきた。
2018年12月アメリカは「ISILを打倒した」として、シリアに展開する駐留アメリカ軍の撤収を開始。
2019年トルコ軍によるシリア侵攻
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