イラク共和国
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西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。
当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。
サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。
これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。
8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。
当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。
サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。
これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。
8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。
キリストの生きていたころだね。
この54℃って気温なのかね
日本のアメダスと同じ測り方なのだろうか?
日本のアメダスと同じ測り方なのだろうか?
岩井大使はイラクを離れるにあたり、寂しく感じるものがいくつかあると言う。
例えば、イラク版のすしともいえる野菜の詰め物「ドルマ」だ。
だが、もうこりごりと思っているものも一つある。
それは「気候」だという。
イラクでは夏の気温がしばしば50度を超えるが、
岩井大使は「ここに来るたび、どんどん暑くなっているように感じている」
「コンクリートの壁や緑地の減少、大気汚染と関係しているのかもしれない」と語った。
例えば、イラク版のすしともいえる野菜の詰め物「ドルマ」だ。
だが、もうこりごりと思っているものも一つある。
それは「気候」だという。
イラクでは夏の気温がしばしば50度を超えるが、
岩井大使は「ここに来るたび、どんどん暑くなっているように感じている」
「コンクリートの壁や緑地の減少、大気汚染と関係しているのかもしれない」と語った。
ここは今平和かな?
日本
アブラハムがシュメール出身
日本でシュメール文字が発見されてたような
天皇家の有名な十六菊花紋は一般的なユダヤ教会で使われる紋章であると同時に、シュメール王家の家紋でもあります。
天皇の尊称は『スメラミコト』であり、スメラは英語ではシュメールと発音しラテン語ではスメルと発音します?
ミコトは王と言う意味です。
明治維新前までは天皇ではなく、スメラミコトと呼ばれていました。維新後は天皇と呼ぶようになりました。
西暦1年の世界人口は3億人。中東の川沿いに余裕で住める。人口密度的に余裕。
アブラハムがシュメール出身
日本でシュメール文字が発見されてたような
天皇家の有名な十六菊花紋は一般的なユダヤ教会で使われる紋章であると同時に、シュメール王家の家紋でもあります。
天皇の尊称は『スメラミコト』であり、スメラは英語ではシュメールと発音しラテン語ではスメルと発音します?
ミコトは王と言う意味です。
明治維新前までは天皇ではなく、スメラミコトと呼ばれていました。維新後は天皇と呼ぶようになりました。
西暦1年の世界人口は3億人。中東の川沿いに余裕で住める。人口密度的に余裕。
新石器時代の当時、肥沃な三日月地帯に人類最初の農耕と牧畜が始まり
文明のゆりかごとなった→オリエント文明https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%...
文明のゆりかごとなった→オリエント文明https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%...
前2100年頃、シュメール人がメソポタミア支配を再建しウル第3王朝
アッカド王朝の衰退に乗じウルのシュメール人軍事司令官ウル=ナンムが建国。約100年しか存続しなかったが、その間、最初の法典の整備が行われシュメール法典が編纂された。また法に基づく行政や裁判が行われていたらしく、膨大な行政、財政、租税、裁判記録などを記した粘土板が出土している。このようなウル第3王朝には「最初の官僚制国家」という位置づけがされている。
ウル第3王朝は5代約100年続いた後、前2004年頃、東方(イラン方面)から侵入したエラム人によって滅ぼされた。
シュメール人の手による法典整備は、その後、イシン王朝(ウル西北のイシンを中心としたシュメール人の王朝)のリピト=イシュタル法典(前20世紀)などを経て、古バビロニア王国のハンムラビ法典につながっていく。ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものであり、世界最古の法典ではない。
アッカド王朝の衰退に乗じウルのシュメール人軍事司令官ウル=ナンムが建国。約100年しか存続しなかったが、その間、最初の法典の整備が行われシュメール法典が編纂された。また法に基づく行政や裁判が行われていたらしく、膨大な行政、財政、租税、裁判記録などを記した粘土板が出土している。このようなウル第3王朝には「最初の官僚制国家」という位置づけがされている。
ウル第3王朝は5代約100年続いた後、前2004年頃、東方(イラン方面)から侵入したエラム人によって滅ぼされた。
シュメール人の手による法典整備は、その後、イシン王朝(ウル西北のイシンを中心としたシュメール人の王朝)のリピト=イシュタル法典(前20世紀)などを経て、古バビロニア王国のハンムラビ法典につながっていく。ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものであり、世界最古の法典ではない。
前1900年頃、バビロン第1王朝(古バビロニア)を築いてメソポタミアを支配したセム語族遊牧民のアムル人(アモリ人)
前2000年紀前半のメソポタミアに、シリア砂漠から侵入しその中・下流域であるバビロニアを支配して、イシン、バビロン、ラルサなどの都市を形成し、シュメール人のウル第3王朝にかわって次第に有力となり、紀元前1900年頃、バビロンを都にバビロン第1王朝を築いてメソポタミアを支配した。その全盛期の王がハンムラビ王である。 → メソポタミア文明
この王国をバビロニア王国とも言う。彼らの支配はティグリス=ユーフラテス川上流に及び、特に前18世紀のハンムラビ王の時には初めてメソポタミア全域を統一して支配した。彼はシュメール人の法典を継承し、より体系的なハンムラビ法典を制定した。
王は神の代理として刑を行っており、同害復讐法を原則にしている。「目には目を、歯には歯を」・・・
しかしその死後、バビロニアは西アジア全体の民族移動の波にさらされることとなり、小アジアからインド=ヨーロッパ語族のヒッタイトの侵攻を受けた。ヒッタイトはオリエントに初めて鉄器を持ち込んだと言われており、それによって青銅器の時代は終わりを告げることとなった。
前2000年紀前半のメソポタミアに、シリア砂漠から侵入しその中・下流域であるバビロニアを支配して、イシン、バビロン、ラルサなどの都市を形成し、シュメール人のウル第3王朝にかわって次第に有力となり、紀元前1900年頃、バビロンを都にバビロン第1王朝を築いてメソポタミアを支配した。その全盛期の王がハンムラビ王である。 → メソポタミア文明
この王国をバビロニア王国とも言う。彼らの支配はティグリス=ユーフラテス川上流に及び、特に前18世紀のハンムラビ王の時には初めてメソポタミア全域を統一して支配した。彼はシュメール人の法典を継承し、より体系的なハンムラビ法典を制定した。
王は神の代理として刑を行っており、同害復讐法を原則にしている。「目には目を、歯には歯を」・・・
しかしその死後、バビロニアは西アジア全体の民族移動の波にさらされることとなり、小アジアからインド=ヨーロッパ語族のヒッタイトの侵攻を受けた。ヒッタイトはオリエントに初めて鉄器を持ち込んだと言われており、それによって青銅器の時代は終わりを告げることとなった。
カッシートの支配
前1595年、ヒッタイト軍はバビロンを攻撃、バビロン第1王朝を滅ぼした。ヒッタイトはバビロニアにとどまることなく西に戻り、その後は西部山岳地帯からカッシート(民族系統不明)が入り込み、バビロニアを支配した。カッシートは独立した国家ではなく、バビロニア王国を支配した王朝の一つされ、バビロニアの文化や宗教を尊重し、それを継承した。カッシートをバビロン第三王朝ということもある。 バビロニアを支配したカッシートは西側のミタンニやヒッタイト、東側のエラムとの抗争を続けながら、約350年間存続した。その間、前13世紀後半には一時アッシリアに征服されたが、アッシリアが後退したため、ヒッタイトやエジプトとは親交をもつなど「遠交近攻」策をとって王国は存続できた。しかし、カッシートはイラン方面から進出したエラム人によって前1155年ごろに滅ぼされた。このとき、バビロンにあったハンムラビ法典を記した石柱などがエラムの都スーサに運ばれた。その後、バビロニアにはイシン第二王朝など短期王朝が次々と存続し、いずれもバビロニアの伝統を継承したが、西方に台頭したアッシリアに押され、国際社会では低迷した。
前1595年、ヒッタイト軍はバビロンを攻撃、バビロン第1王朝を滅ぼした。ヒッタイトはバビロニアにとどまることなく西に戻り、その後は西部山岳地帯からカッシート(民族系統不明)が入り込み、バビロニアを支配した。カッシートは独立した国家ではなく、バビロニア王国を支配した王朝の一つされ、バビロニアの文化や宗教を尊重し、それを継承した。カッシートをバビロン第三王朝ということもある。 バビロニアを支配したカッシートは西側のミタンニやヒッタイト、東側のエラムとの抗争を続けながら、約350年間存続した。その間、前13世紀後半には一時アッシリアに征服されたが、アッシリアが後退したため、ヒッタイトやエジプトとは親交をもつなど「遠交近攻」策をとって王国は存続できた。しかし、カッシートはイラン方面から進出したエラム人によって前1155年ごろに滅ぼされた。このとき、バビロンにあったハンムラビ法典を記した石柱などがエラムの都スーサに運ばれた。その後、バビロニアにはイシン第二王朝など短期王朝が次々と存続し、いずれもバビロニアの伝統を継承したが、西方に台頭したアッシリアに押され、国際社会では低迷した。
アッシリア帝国
オリエントを初めて統一したのはアッシリア帝国で、彼らは前9世紀ごろ戦車と騎兵を駆使してメソポタミアを征服、前8世紀にはバビロニアもその支配下に入り、前728年にはアッシリア王ティグラト=ピラセル3世がバビロニア王も兼ねている。さらに前722年にはイスラエル王国を征服した。前668年にはアッシュール=バニパル王が即位し、首都ニネヴェを建設し、全盛期となった。さらに前663年にはエジプトも併合し、全オリエントを初めて統一することに成功した。
新バビロニア王国
しかしアッシリア帝国の急速な統一事業に対する反発も強く、早くも前613年にはカルデア人がバビロンで自立して新バビロニア王国(カルデア王国)が作られ、翌前612年にはアッシリア帝国を滅ぼしてしまった。その後、オリエントは新バビロニア王国と並んでイラン高原をメディア王国、小アジアをリディア王国、さらにエジプトを加えた四国が併存する時代となった。
オリエントを初めて統一したのはアッシリア帝国で、彼らは前9世紀ごろ戦車と騎兵を駆使してメソポタミアを征服、前8世紀にはバビロニアもその支配下に入り、前728年にはアッシリア王ティグラト=ピラセル3世がバビロニア王も兼ねている。さらに前722年にはイスラエル王国を征服した。前668年にはアッシュール=バニパル王が即位し、首都ニネヴェを建設し、全盛期となった。さらに前663年にはエジプトも併合し、全オリエントを初めて統一することに成功した。
新バビロニア王国
しかしアッシリア帝国の急速な統一事業に対する反発も強く、早くも前613年にはカルデア人がバビロンで自立して新バビロニア王国(カルデア王国)が作られ、翌前612年にはアッシリア帝国を滅ぼしてしまった。その後、オリエントは新バビロニア王国と並んでイラン高原をメディア王国、小アジアをリディア王国、さらにエジプトを加えた四国が併存する時代となった。
前722年、イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた後、ヘブライ人の国家はイェルサレムを都としたユダ王国のみとなった。アッシリアはユダ王国も征服しようとイェルサレムに総攻撃をかけたが、ユダ王国の王ヒゼキヤは「アッシリア軍による長期間のイェルサレム包囲に備えて、イェルサレムの城壁を固め、食料を蓄え、水源確保のため、ギホンの泉とシロアハの池との間に地下トンネルを開鑿して、生活用水を城内まで導き入れることに力を注いだ(前705~701年)。これによって町を包囲された場合でも十分な生活用水を供給できたのである。このトンネルは全長530mに及び、現在もイェルサレムに残っている(Siloam tunnel, Hezekiah's Tunnel)イェルサレムの守りを固めてて抵抗したが、結局はその軍門に下り、アッシリアに貢納する属国として細々と独立を維持することとなった。
バビロン捕囚
最強を誇ったのが新バビロニアのネブカドネザル2世で、彼の時にパレスチナに進出してイェルサレムを占領、ユダ王国を滅ぼしてユダヤ人をバビロンに拉致した。これがバビロン捕囚と言われる出来事である。前586年、ユダ王国が新バビロニアのネブカドネザル王に征服され、住民のヘブライ人がバビロンに連行されて捕囚となった。前538年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを亡ぼしたときに解放された。ヘブライ人はこの民族的苦難の体験を伝えるべく帰国後イェルサレムにヤハウェ神殿を建設、ユダヤ教の信仰を成立させた。
バビロン捕囚
最強を誇ったのが新バビロニアのネブカドネザル2世で、彼の時にパレスチナに進出してイェルサレムを占領、ユダ王国を滅ぼしてユダヤ人をバビロンに拉致した。これがバビロン捕囚と言われる出来事である。前586年、ユダ王国が新バビロニアのネブカドネザル王に征服され、住民のヘブライ人がバビロンに連行されて捕囚となった。前538年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを亡ぼしたときに解放された。ヘブライ人はこの民族的苦難の体験を伝えるべく帰国後イェルサレムにヤハウェ神殿を建設、ユダヤ教の信仰を成立させた。
前609年にメソポタミアとエジプトを統一支配していたアッシリアが最終的に滅亡すると、オリエント世界は、新バビロニアのネブカドネザル(ネブカドネツァル)王とエジプト(第26王朝)のネコ王がその覇権をめぐって激しく対立することとなった。その中間にあるパレスチナのユダ王国は両国の間で揺れ動き、最終的な選択が迫られたが、その判断はエジプト側に付くというものだった。それに対して新バビロニアのネブカドネザル王はたびたびユダ王国に圧力を加え、自陣営に引き寄せようとした。また、ユダ王国の王は両国の優劣を図りながら王権の維持を図り、貢納や軍事の負担は民衆を圧迫した。前601年頃、新バビロニアのネブカドネザル軍がエジプト侵入を試み、エジプト王ネコに撃退されたのを見たユダ王国の王ヨヤキムは、新バビロニアに叛旗をひるがえして貢納を停止した。第1回バビロン捕囚 前598年 ユダの王エホヤキン(ヨヤキン)18歳はバビロンの王に降服・・・この時はネブカドネザルは神殿は破壊せず、また属州とすることもなく、属国としてエジプトとの緩衝地帯としようとしたらしい。エホヤキンがバビロンに連行された後、バビロンの王によってその叔父が王位に就けられてゼデキヤとなった。態勢を整え直したネブカドネザルがパレスチナに迫ると、ユダ王国の王ヨヤキムは国内の親バビロン派に暗殺されたらしい。 第2回バビロン捕囚 前586年 ゼデキヤがバビロンの王にそむいて起こった。一般にこの時のことを「バビロン捕囚」と言いイェルサレムは徹底的に破壊され、神の加護の象徴であった神殿にも火がかけられ、ユダ王国は滅亡した。
バビロン捕囚後のパレスチナ
ネブカドネザルはユダの地を属州とし、総督をおいて支配したが、潜伏した反バビロニアの人々の抵抗が続いた。総督暗殺事件が起こると報復を恐れた反バビロニア派の多くはエジプトに亡命した。なおエレミヤ書に依れば前582年に第3回のバビロン捕囚が行われた。イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアは、人々を強制的に分散させ、イスラエルの地には他から入植者を移住させたが、ユダ王国を滅ぼした新バビロニアは、集団としてまとまってバビロンに連行し、またその跡地には他から入植させなかった。そのため、解放された人々が戻ったときには比較的民族としてのまとまりを維持することができた。しかし、かつてのイスラエル12部族の内、バビロン捕囚後も存続できたのはほとんどがユダ王国の中心部族だったユダ部族だった。そのため、バビロン捕囚後は「ユダの民」つまり「ユダヤ人」といわれるようになる。
前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世はバビロンを征服し、翌前538年に勅令を発布し、ユダヤ人のイェルサレムへの帰還と神殿の再建を許可し、さらに戦利品としてバビロンに没収されていた神殿の器物を返還し、神殿再建のための財政援助を約束した。こうして約50年に近い捕囚の生活を終わり、帰還民が続々と出発し、イェルサレムを目指した。(旧約聖書エズラ記) なお、ユダヤ人が戻ったパレスチナの地はペルシア帝国の州とされ(異説あり)、ユダヤ人のゼルバベルが総督に任命され、一定の自治が行われた。ペルシア帝国は宗教的な寛容政策をとり、ユダヤ教などの民族宗教はそのまま信仰を認められた。
ネブカドネザルはユダの地を属州とし、総督をおいて支配したが、潜伏した反バビロニアの人々の抵抗が続いた。総督暗殺事件が起こると報復を恐れた反バビロニア派の多くはエジプトに亡命した。なおエレミヤ書に依れば前582年に第3回のバビロン捕囚が行われた。イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアは、人々を強制的に分散させ、イスラエルの地には他から入植者を移住させたが、ユダ王国を滅ぼした新バビロニアは、集団としてまとまってバビロンに連行し、またその跡地には他から入植させなかった。そのため、解放された人々が戻ったときには比較的民族としてのまとまりを維持することができた。しかし、かつてのイスラエル12部族の内、バビロン捕囚後も存続できたのはほとんどがユダ王国の中心部族だったユダ部族だった。そのため、バビロン捕囚後は「ユダの民」つまり「ユダヤ人」といわれるようになる。
前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世はバビロンを征服し、翌前538年に勅令を発布し、ユダヤ人のイェルサレムへの帰還と神殿の再建を許可し、さらに戦利品としてバビロンに没収されていた神殿の器物を返還し、神殿再建のための財政援助を約束した。こうして約50年に近い捕囚の生活を終わり、帰還民が続々と出発し、イェルサレムを目指した。(旧約聖書エズラ記) なお、ユダヤ人が戻ったパレスチナの地はペルシア帝国の州とされ(異説あり)、ユダヤ人のゼルバベルが総督に任命され、一定の自治が行われた。ペルシア帝国は宗教的な寛容政策をとり、ユダヤ教などの民族宗教はそのまま信仰を認められた。
アケメネス朝ペルシア帝国は広大な領土に多様な民族と文化を内包する「世界帝国」の典型であった。官僚制度や交通網を発達させ、中央集権的な専制国家であり、高度な文明を誇っていた。楔形文字を使用するなど、オリエント文明を継承するとともに、新たなイラン文明を作り上げ、次のパルティアとササン朝ペルシアに継承される。イラン人のゾロアスターが始めたゾロアスター教を保護し、国教に準ずるような扱いをしたが、他の宗教にも寛容であった。
前334年にマケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征を開始、前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。征服した遠征各地にギリシア人を入植させ70カ所以上にわたりアレクサンドリアを建設、ギリシア文化とオリエント文化が融合しヘレニズム世界を現出させた。中でもエジプトのアレクサンドリアが最も栄えた。前323年にバビロンでアレクサンドロス死去、その後、帝国は後継者たちによって分割され、ディアドコイと言われる後継者たちによる争いによって分裂、本国マケドニアにはアンティゴノス朝マケドニア、メソポタミアからイラン高原一帯にはセレウコス朝シリア、エジプトにはプトレマイオス朝エジプトのいずれもギリシア人を支配者としたヘレニズム三国に分離した。
前334年にマケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征を開始、前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。征服した遠征各地にギリシア人を入植させ70カ所以上にわたりアレクサンドリアを建設、ギリシア文化とオリエント文化が融合しヘレニズム世界を現出させた。中でもエジプトのアレクサンドリアが最も栄えた。前323年にバビロンでアレクサンドロス死去、その後、帝国は後継者たちによって分割され、ディアドコイと言われる後継者たちによる争いによって分裂、本国マケドニアにはアンティゴノス朝マケドニア、メソポタミアからイラン高原一帯にはセレウコス朝シリア、エジプトにはプトレマイオス朝エジプトのいずれもギリシア人を支配者としたヘレニズム三国に分離した。
バベルの塔はエ・テメン・アン・キのジッグラト?
(バグダッドから南に約 90 kmの遺跡)
(バグダッドから南に約 90 kmの遺跡)
アルサケス朝パルティア(アルサケス←ギリシア語表記。ペルシア語表記は「アルシャク朝」。中国では安息国)
前3~後3世紀まで、イラン系遊牧民がセレウコス朝シリアから自立し、イラン高原に建国した国家。シルクロード交易を通じて中国では安息国として知られていた。長期にわたりローマと対抗し、しばしばその侵攻を撃退したが、次第に国力が衰え、226年、農耕系イラン人のササン朝に滅ぼされた。
前3世紀にバクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧イラン人パルニ族がこの地に定住、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていた。前247年ごろ、パルティアはセレウコス朝から独立をはたし、さらに前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた。都はいくつかを移動した後、イラン北部のヘカトンピュロスとされた。前2世紀のミトラダテス1世の時、セレウコス朝を圧迫してメソポタミアに進出し、ティグリス川河畔にクテシフォンを建設し、遷都した。紀元後1~2世紀には、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら、東西交易路を抑え、繁栄した。アルサケス朝パルティアの存在はシルクロードを経て中国にまで伝えられる。紀元前から始まっていたローマとの抗争は、一時はローマ軍を破るなどの勢いを示していたが、中間地帯であるアルメニアの支配権を巡る長期にわたる抗争は次第に国力を消耗させ、226年に農耕イラン人のササン朝ペルシアに滅ぼされる。
前3~後3世紀まで、イラン系遊牧民がセレウコス朝シリアから自立し、イラン高原に建国した国家。シルクロード交易を通じて中国では安息国として知られていた。長期にわたりローマと対抗し、しばしばその侵攻を撃退したが、次第に国力が衰え、226年、農耕系イラン人のササン朝に滅ぼされた。
前3世紀にバクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧イラン人パルニ族がこの地に定住、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていた。前247年ごろ、パルティアはセレウコス朝から独立をはたし、さらに前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた。都はいくつかを移動した後、イラン北部のヘカトンピュロスとされた。前2世紀のミトラダテス1世の時、セレウコス朝を圧迫してメソポタミアに進出し、ティグリス川河畔にクテシフォンを建設し、遷都した。紀元後1~2世紀には、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら、東西交易路を抑え、繁栄した。アルサケス朝パルティアの存在はシルクロードを経て中国にまで伝えられる。紀元前から始まっていたローマとの抗争は、一時はローマ軍を破るなどの勢いを示していたが、中間地帯であるアルメニアの支配権を巡る長期にわたる抗争は次第に国力を消耗させ、226年に農耕イラン人のササン朝ペルシアに滅ぼされる。
ササン朝ペルシア 3世紀にパルティアに代わりイラン高原を支配した農耕イラン系国家。ゾロアスター教を国教とし、高度なイラン文明を発達させた
ササン朝は西方のローマ帝国と激しく抗争した。一方東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。
ササン朝のシャープール1世時代は、西方のユダヤ人の中から興ったキリスト教と東方のインドに興った仏教の影響がイランにおよび、イラン本来のゾロアスター教が大きく動揺した時代であった。特にバビロンで活動したペルシア人マニは、キリスト教(グノーシス派)と仏教の影響を受けてゾロアスター教と折衷させた新たな宗教マニ教の教祖となった。5世紀初めには中央アジアに興ったエフタルの侵入を受けて一時危機に陥った。「最後の大王」ホスロー2世(在位590~628)は王位を確定すると、今度はビザンツ帝国の混乱に乗じて小アジアに進出、さらに614年にはイェルサレムを襲撃し、イエスが磔になったという十字架を持ち去った。このササン朝とビザンツ帝国の長期にわたる抗争は、東地中海-レヴァント地方-シリア-メソポタミアを結ぶ東西貿易を衰退させ、その戦乱を避けた商人たちがアラビア半島南部のヒジャースを通るようになり、それがメッカやメディアの繁栄をもたらし、そこからイスラーム教とその国家が台頭することとなる。7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対するジハード/聖戦を展開し~ニハーヴァンドの戦い~651年ササン朝ペルシアは滅亡。以後、イランは急速にイスラーム化>>1
ササン朝は西方のローマ帝国と激しく抗争した。一方東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。
ササン朝のシャープール1世時代は、西方のユダヤ人の中から興ったキリスト教と東方のインドに興った仏教の影響がイランにおよび、イラン本来のゾロアスター教が大きく動揺した時代であった。特にバビロンで活動したペルシア人マニは、キリスト教(グノーシス派)と仏教の影響を受けてゾロアスター教と折衷させた新たな宗教マニ教の教祖となった。5世紀初めには中央アジアに興ったエフタルの侵入を受けて一時危機に陥った。「最後の大王」ホスロー2世(在位590~628)は王位を確定すると、今度はビザンツ帝国の混乱に乗じて小アジアに進出、さらに614年にはイェルサレムを襲撃し、イエスが磔になったという十字架を持ち去った。このササン朝とビザンツ帝国の長期にわたる抗争は、東地中海-レヴァント地方-シリア-メソポタミアを結ぶ東西貿易を衰退させ、その戦乱を避けた商人たちがアラビア半島南部のヒジャースを通るようになり、それがメッカやメディアの繁栄をもたらし、そこからイスラーム教とその国家が台頭することとなる。7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対するジハード/聖戦を展開し~ニハーヴァンドの戦い~651年ササン朝ペルシアは滅亡。以後、イランは急速にイスラーム化>>1
ムハンマド/マホメット イスラーム教を創始した預言者。
メッカのクライシュ族の一氏族である大商人のハーシム家に生まれ、早くに両親に死別して、叔父のアブー=ターリブに養育される。ムハンマドがまだ商人として活動していた25歳頃、その取引先の一人だった40歳の未亡人ハディージャと結婚した。その後ムハンマドは生涯で9人の妻を持つが、彼がイスラーム教の始祖となるにはこのハディージャの存在が大きかった。40歳ごろの610年、ヒラー山で瞑想にふけっていたところ天使ガブリエルが現れ、神の言葉を伝えられ神の使いとなってその宣教にあたることを決意しイスラーム教を創始した。彼は自らを最後の預言者としてメッカの人々にカーバ神殿の主神アッラーを唯一の神として崇拝し、神の恩寵とそれに対する感謝、喜捨などの善行の義務を説いた。622年にメッカで迫害されメディナに移り、教団(ウンマ)を形成、630年にメッカを征服してカーバを一神教の神殿とした。その結果、諸部族が次々と帰順しアラビア半島の政治的・宗教的統一を果たし632年に死去した。その言行録が『コーラン』で死去後、ウンマを指導するムハンマドの後継者カリフとして初期の改宗者で長老のアブー=バクル※を選出した。これ以後4代のカリフが選出される時代が続き、それを後に正統カリフ時代といっている。しかしやがて誰をムハンマドの正統後継者とするか対立があり、次のウマイヤ家のムアーウィヤがカリフになると教団の分裂が生じることとなる。※ムハンマドの友人で古い同志。ムハンマドの妻の一人アーイシャの父であるのでムハンマドの義父にあたる。
メッカのクライシュ族の一氏族である大商人のハーシム家に生まれ、早くに両親に死別して、叔父のアブー=ターリブに養育される。ムハンマドがまだ商人として活動していた25歳頃、その取引先の一人だった40歳の未亡人ハディージャと結婚した。その後ムハンマドは生涯で9人の妻を持つが、彼がイスラーム教の始祖となるにはこのハディージャの存在が大きかった。40歳ごろの610年、ヒラー山で瞑想にふけっていたところ天使ガブリエルが現れ、神の言葉を伝えられ神の使いとなってその宣教にあたることを決意しイスラーム教を創始した。彼は自らを最後の預言者としてメッカの人々にカーバ神殿の主神アッラーを唯一の神として崇拝し、神の恩寵とそれに対する感謝、喜捨などの善行の義務を説いた。622年にメッカで迫害されメディナに移り、教団(ウンマ)を形成、630年にメッカを征服してカーバを一神教の神殿とした。その結果、諸部族が次々と帰順しアラビア半島の政治的・宗教的統一を果たし632年に死去した。その言行録が『コーラン』で死去後、ウンマを指導するムハンマドの後継者カリフとして初期の改宗者で長老のアブー=バクル※を選出した。これ以後4代のカリフが選出される時代が続き、それを後に正統カリフ時代といっている。しかしやがて誰をムハンマドの正統後継者とするか対立があり、次のウマイヤ家のムアーウィヤがカリフになると教団の分裂が生じることとなる。※ムハンマドの友人で古い同志。ムハンマドの妻の一人アーイシャの父であるのでムハンマドの義父にあたる。
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ウマイヤ朝 661~750年最初のカリフ世襲制度による王朝。ウマイヤ家がシリアのダマスクスを都として西アジアを支配、さらにその版図を中央アジアや北アフリカ、さらにイベリア半島まで拡大した。しかしアラブ人優位の政策から生まれたイスラームの「ウンマは一つ」という原理と矛盾するアラブと非アラブが対立、ウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現によりイスラーム世界の分裂がはじまり8世紀に非アラブのイスラーム教徒の不満の高まりなどによって衰えアッバース家によって倒された。ウマイヤ家の中で難を逃れた人々は遠く西方に逃れイベリア半島に入って後ウマイヤ朝を建てた。
アッバース朝 750~1258年までアッバース家のカリフ支配が続いたイスラーム帝国。762年に建造された新都バグダードを中心に、8世紀末に全盛期となり、北アフリカから中央アジアに及ぶ広大な領域を支配した。9世紀なかごろから地方に独立政権が生まれ、イベリア半島・エジプトにもカリフが分立した。バグダードでは実権はブワイフ朝の大アミール、セルジューク朝・アイユーブ朝のスルタンに奪われ、カリフ支配は形骸化した。最後はモンゴルのフラグによって滅ぼされた。
ウマイヤ朝 661~750年最初のカリフ世襲制度による王朝。ウマイヤ家がシリアのダマスクスを都として西アジアを支配、さらにその版図を中央アジアや北アフリカ、さらにイベリア半島まで拡大した。しかしアラブ人優位の政策から生まれたイスラームの「ウンマは一つ」という原理と矛盾するアラブと非アラブが対立、ウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現によりイスラーム世界の分裂がはじまり8世紀に非アラブのイスラーム教徒の不満の高まりなどによって衰えアッバース家によって倒された。ウマイヤ家の中で難を逃れた人々は遠く西方に逃れイベリア半島に入って後ウマイヤ朝を建てた。
アッバース朝 750~1258年までアッバース家のカリフ支配が続いたイスラーム帝国。762年に建造された新都バグダードを中心に、8世紀末に全盛期となり、北アフリカから中央アジアに及ぶ広大な領域を支配した。9世紀なかごろから地方に独立政権が生まれ、イベリア半島・エジプトにもカリフが分立した。バグダードでは実権はブワイフ朝の大アミール、セルジューク朝・アイユーブ朝のスルタンに奪われ、カリフ支配は形骸化した。最後はモンゴルのフラグによって滅ぼされた。
バグダード
アッバース朝、第2代カリフのマンスールは、イラク平原のティグリス川西岸に、762年に新都建設を開始し、766年に完成させた。この新都は「平安の都」(マディーナ=アッサーム)と名付けられ、その中心部には、円形の城壁に囲まれ、緑色のドームを持つ宮殿が建てられていた。バグダードは8世紀から9世紀にかけてハールーン=アッラシード(第5代カリフ)のころ最も繁栄し、人口200万を数えた。その子マームーン(第7代カリフ)は830年ごろ、父の建設したバクダードのギリシア語翻訳機関を発展させ、知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)を完成させた。それ以後も、政治的機能以外にもカリフの居城のある宗教的機能をもち、さらにイスラーム文明の文化の中心地として栄えた。
古典古代のギリシアの学問は、ヘレニズム時代を経て、イスラーム世界に伝えられ、8~9世紀にアッバース朝の都バグダードの「知恵の館」で組織的にギリシア語からアラビア語への翻訳が行われた。その間、ヨーロッパ中世社会ではギリシア文化と科学、哲学などの学問は忘れ去られていた。イスラーム世界と接するイベリア半島や南イタリアで、イスラーム教徒からすぐれた技術に刺激されたヨーロッパのキリスト教徒は、12~13世紀にトレドの翻訳学校などで盛んにアラビア語訳のギリシア文献を、ラテン語訳することが行われるようになった。このように、古代ギリシア文化が中世ヨーロッパに知られたのは、イスラーム世界を経てのことであったことは重要である。→12世紀ルネサンス
アッバース朝、第2代カリフのマンスールは、イラク平原のティグリス川西岸に、762年に新都建設を開始し、766年に完成させた。この新都は「平安の都」(マディーナ=アッサーム)と名付けられ、その中心部には、円形の城壁に囲まれ、緑色のドームを持つ宮殿が建てられていた。バグダードは8世紀から9世紀にかけてハールーン=アッラシード(第5代カリフ)のころ最も繁栄し、人口200万を数えた。その子マームーン(第7代カリフ)は830年ごろ、父の建設したバクダードのギリシア語翻訳機関を発展させ、知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)を完成させた。それ以後も、政治的機能以外にもカリフの居城のある宗教的機能をもち、さらにイスラーム文明の文化の中心地として栄えた。
古典古代のギリシアの学問は、ヘレニズム時代を経て、イスラーム世界に伝えられ、8~9世紀にアッバース朝の都バグダードの「知恵の館」で組織的にギリシア語からアラビア語への翻訳が行われた。その間、ヨーロッパ中世社会ではギリシア文化と科学、哲学などの学問は忘れ去られていた。イスラーム世界と接するイベリア半島や南イタリアで、イスラーム教徒からすぐれた技術に刺激されたヨーロッパのキリスト教徒は、12~13世紀にトレドの翻訳学校などで盛んにアラビア語訳のギリシア文献を、ラテン語訳することが行われるようになった。このように、古代ギリシア文化が中世ヨーロッパに知られたのは、イスラーム世界を経てのことであったことは重要である。→12世紀ルネサンス
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イスラーム法は清潔・清浄を重視し、沐浴のための公衆浴場はどんな場所でも必要とされた。イスラーム都市の規模は「モスクと浴場」で数えられバグダードの最盛期にはモスクが30万、浴場が6万軒もあったという。浴場それぞれに従業員(風呂たき、水汲み、ゴミ収集、監視)が5人だとするとそれだけでも30万人に達し、人口は150万から200万人と推定されている。ビザンツ帝国のコンスタンティノープルや唐の長安よりも多く当時世界最大の都市であった。
フラグ はモンゴル帝国のチンギス=ハンの末子トゥルイの子で、モンケ=ハンの弟。1253年からモンケ=ハンの命令で西アジア遠征に出発。1256年に北部イランの山岳地帯に勢力を張っていたシーア派イスマーイール派の暗殺教団の本拠を攻略して滅ぼし、ついで南下してメソポタミアに入り、1258年にバクダードを陥落させ、最後のカリフ・ムスタースィムを殺しアッバース朝を滅ぼした。バグダード陥落 により世界最大の図書館。知恵の館も膨大な文書と共に灰燼に帰した。
イスラーム法は清潔・清浄を重視し、沐浴のための公衆浴場はどんな場所でも必要とされた。イスラーム都市の規模は「モスクと浴場」で数えられバグダードの最盛期にはモスクが30万、浴場が6万軒もあったという。浴場それぞれに従業員(風呂たき、水汲み、ゴミ収集、監視)が5人だとするとそれだけでも30万人に達し、人口は150万から200万人と推定されている。ビザンツ帝国のコンスタンティノープルや唐の長安よりも多く当時世界最大の都市であった。
フラグ はモンゴル帝国のチンギス=ハンの末子トゥルイの子で、モンケ=ハンの弟。1253年からモンケ=ハンの命令で西アジア遠征に出発。1256年に北部イランの山岳地帯に勢力を張っていたシーア派イスマーイール派の暗殺教団の本拠を攻略して滅ぼし、ついで南下してメソポタミアに入り、1258年にバクダードを陥落させ、最後のカリフ・ムスタースィムを殺しアッバース朝を滅ぼした。バグダード陥落 により世界最大の図書館。知恵の館も膨大な文書と共に灰燼に帰した。
イル=ハン国
1260年に成立 13世紀末にガザン=ハンの時イスラーム化し、高度なイラン=イスラーム文化を開花させた。14世紀半ばにはモンゴル人の王統が途絶え、イラン系地方政権が各地に生まれ、16世紀にはティムール帝国に吸収された。イラン人にとっては異民族支配を受けることとなったが、イラン人は高い文化的伝統を持っていたので文化的には次第にイラン化が進んでいった。1335年、第9代のアブー=サイードが宮廷内で皇后に殺害されるという事件が起き、フラグの血統が途絶えた。有力集団はそれぞれ継承権を主張して争い、1353年にはトルコ=モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争するようになって事実上国家としての統合は失われた。15世紀にはティムール朝に吸収されるが、イスラーム化したモンゴル人の一部はイラン高原やアフガニスタンの草原地帯で遊牧生活を続け、現在もアフガニスタンではハザラ人と言われ少数派を形成している。
1260年に成立 13世紀末にガザン=ハンの時イスラーム化し、高度なイラン=イスラーム文化を開花させた。14世紀半ばにはモンゴル人の王統が途絶え、イラン系地方政権が各地に生まれ、16世紀にはティムール帝国に吸収された。イラン人にとっては異民族支配を受けることとなったが、イラン人は高い文化的伝統を持っていたので文化的には次第にイラン化が進んでいった。1335年、第9代のアブー=サイードが宮廷内で皇后に殺害されるという事件が起き、フラグの血統が途絶えた。有力集団はそれぞれ継承権を主張して争い、1353年にはトルコ=モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争するようになって事実上国家としての統合は失われた。15世紀にはティムール朝に吸収されるが、イスラーム化したモンゴル人の一部はイラン高原やアフガニスタンの草原地帯で遊牧生活を続け、現在もアフガニスタンではハザラ人と言われ少数派を形成している。
ティムール帝国
1370年、ティムールがサマルカンドを都に建国したトルコ=モンゴル系のイスラーム教国家。中央アジアから西アジアを支配する大帝国となった。トルコ=イスラーム文化を開花させた。中央アジアに成立した最初で最大の帝国であったが、ティムールの死後は分裂を重ね、1507年にウズベク人に制圧されて消滅した。
シャイバニ(1451~1510)
ティムール朝を倒したウズベク人の指導者。1500年にサマルカンドを都にスンナ派イスラーム教の王朝シャイバニ朝を建国した。首都はブハラにおかれた。シャイバニは1510年、イランに起こったサファヴィー朝(シーア派)のイスマーイール1世と戦って戦死した。
その後シャイバニ朝はブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハン国に分裂してしまい、中央アジアは世界史のなかで停滞することとなるが、その周辺ではティムール朝の圧力が無くなったことにより、小アジアを中心としたオスマン帝国、イランのサファヴィー朝、インドのムガル帝国の台頭をもたらすこととなった。
1370年、ティムールがサマルカンドを都に建国したトルコ=モンゴル系のイスラーム教国家。中央アジアから西アジアを支配する大帝国となった。トルコ=イスラーム文化を開花させた。中央アジアに成立した最初で最大の帝国であったが、ティムールの死後は分裂を重ね、1507年にウズベク人に制圧されて消滅した。
シャイバニ(1451~1510)
ティムール朝を倒したウズベク人の指導者。1500年にサマルカンドを都にスンナ派イスラーム教の王朝シャイバニ朝を建国した。首都はブハラにおかれた。シャイバニは1510年、イランに起こったサファヴィー朝(シーア派)のイスマーイール1世と戦って戦死した。
その後シャイバニ朝はブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハン国に分裂してしまい、中央アジアは世界史のなかで停滞することとなるが、その周辺ではティムール朝の圧力が無くなったことにより、小アジアを中心としたオスマン帝国、イランのサファヴィー朝、インドのムガル帝国の台頭をもたらすこととなった。
16世紀初め、神秘主義教団サファヴィー教団がイランに建国した国家。シーア派の十二イマーム派を国教とし、スンナ派のオスマン帝国、ムガル帝国と抗争した。
イスマーイール1世 1501年、イラン人の国家であるサファヴィー朝を興し、イラン人の王を意味するシャーの称号を用いた。ティムール朝の衰退に乗じ、そのイランを中心とした西アジアの版図を引き継いだ。彼はシーア派の一派の十二イマーム派を国教として同派の聖職者(ウラマー)をイスラーム各地から招き宗教的権威をつくりあげた。
アッバース1世 イランのサファヴィー朝全盛期の王(シャー)。1597年、イスファハーンに遷都する。オスマン帝国からバグダードを奪い、ホルムズ島からポルトガルを駆逐した。その後、宮廷の宦官や後宮の政治介入があって次第に衰退し、1722年にアフガン人(スンナ派)の侵攻を受けて壊滅した。サファヴィー朝はその後、トルコ系軍人ナーディル=シャーによって擁立されて再興されたが、結局1736年にナーディルがアフシャール朝を建国したため完全に滅亡する。
サファヴィー朝は当初はトルコ系遊牧民の軍事力に依存する国家であったが、スンナ派であるオスマン帝国との抗争を通じて次第に穏健なシーア派である十二イマーム派の信仰によってイラン人として結束する意識が定着し、後のイラン国家の形成に重要な意味を持っていた。
イスマーイール1世 1501年、イラン人の国家であるサファヴィー朝を興し、イラン人の王を意味するシャーの称号を用いた。ティムール朝の衰退に乗じ、そのイランを中心とした西アジアの版図を引き継いだ。彼はシーア派の一派の十二イマーム派を国教として同派の聖職者(ウラマー)をイスラーム各地から招き宗教的権威をつくりあげた。
アッバース1世 イランのサファヴィー朝全盛期の王(シャー)。1597年、イスファハーンに遷都する。オスマン帝国からバグダードを奪い、ホルムズ島からポルトガルを駆逐した。その後、宮廷の宦官や後宮の政治介入があって次第に衰退し、1722年にアフガン人(スンナ派)の侵攻を受けて壊滅した。サファヴィー朝はその後、トルコ系軍人ナーディル=シャーによって擁立されて再興されたが、結局1736年にナーディルがアフシャール朝を建国したため完全に滅亡する。
サファヴィー朝は当初はトルコ系遊牧民の軍事力に依存する国家であったが、スンナ派であるオスマン帝国との抗争を通じて次第に穏健なシーア派である十二イマーム派の信仰によってイラン人として結束する意識が定着し、後のイラン国家の形成に重要な意味を持っていた。
十二イマーム派 第4代カリフのアリーは創始者ムハンマドの従兄弟であり娘婿でもあった。イラクのクーファを拠点に活動しシリアのウマイヤ家ムアーウィヤと対立し激しく争った後に和解したが、661年和解に反対するハワーリジュ派によって暗殺された。>>27 イマームはムハンマドのようにアッラーの言葉を理解できる特別の関係を持ち、信者の精神的指導者となるとされ、彼らは誤りや罪を犯すことがなく、ムハンマドを通じて神から特別の知識を与えられている信じられていた。従ってその継承には、ムハンマドの血統をひくことと先任者から指名されることが条件とされた。初代イマームのアリーから数えて十二代目のイマーム、ムハンマド=ムンタザルが人々の前から姿を消した(9世紀おわりから10世紀初頭)。イマームの位は先代の生前の指名に従い子のうちの一人へと伝えられていくため、イマームの家系の断絶によってイマームが不在となる危機にしばしば直面した。そのためにカイサーン派は早くにイマームを失ってイマーム派に吸収されてしまい、信徒の指導者としての能力に優れていれば、アリーの子孫が望ましいとはいえども誰でもイマームになれるとしたザイド派は思想的には限りなくスンナ派に近づきながらも存続した。これに対し、9世紀イスマーイール派は一般の信徒たちには触れることのできない幽冥の世界にお隠れになり、最後の審判のときマフディー(メシア)として再臨するまで死ぬことなくイマームの位を保ちつづけていると考える理論を生み出した。これをガイバ(幽隠)という。
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スレッドタイトル:イラク共和国