イラン
▼ページ最下部
001 2015/03/15(日) 12:15:44 ID:D5wjyiJ1Ww
イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシア語: ایران Īrān)、通称イランは、中東のイスラム共和制国家。
ペルシア、ペルシャともいう。
北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。
またペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。
首都はテヘラン, 日本との時差=−5.5時間。
1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、
宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。
世界有数の石油の産出地でもある。革命以前はアメリカと特別な関係であった事で知られている。
返信する
002 2015/05/30(土) 07:10:35 ID:ynO7rzWg0I
バグダッド-米軍用機はイランが支援する民兵によって支配イラク軍に対する武装をピットインしている戦いに直接米国を描く、水曜日にティクリートのイラクの都市とその周辺イスラム国軍を打つ開始しました。
国防総省当局者はとしてイラク政府が支援を要請したと述べたティクリートのための戦いは、それがその4週目に移動として失速。彼らは、ストライキのための初期の標的は、最近110マイル北西バグダッドの、都市上空を飛行開始した米国主導の連合軍の偵察機によって支援されると述べた。
ティクリートのための戦いは過激派は昨年の夏にそれを取ったので、イラクのイスラム国家権力の象徴と中央なっているモスル、イラク第二の都市、を含むより大きな将来の目標のために極めて重要なテストと考えられている。
返信する
003 2015/06/05(金) 16:55:24 ID:ZglwEyscq6
確かに、商業的に重要な海峡であるホルムズ。
軍事産業だけでなく、石油産業、自動車産業、電力事業においても、重要な意味を持つだろう。
だが、その商業はそもそも膨大な命の犠牲の上に成り立ってきた。
返信する
004 2015/07/03(金) 19:32:57 ID:NIfj.i1r3M
005 2015/08/31(月) 17:39:22 ID:3sQXtiiii2
006 2015/12/24(木) 17:36:42 ID:aP86riHF8g
国連安全保障理事会(UN Security Council)は20日、イラン核計画をめぐって結ばれた歴史的合意を承認する決議を全会一致で採択した。これにより、同国経済をまひさせてきた制裁解除への道が開かれた。
国連安保理常任理事国(米英中仏露)にドイツを加えた6か国(いわゆるP5+1)とイランは、2年近くにわたって続けてきた極めて重要な交渉の総仕上げとなる18日間に及ぶ協議を経て14日、ようやく画期的な最終合意に達した。
20日の決議採択は国連がこの合意を正式承認したことを意味する。
これによりイランが合意を守ることを前提に定められた段階的なプロセスが動き出し、2006年以降対イラン制裁を発動してきた7つの国連決議も解除される方向へ進むことになる。
この決議は国際原子力機関(International Atomic Energy Agency、IAEA)が「イランの核合意履行の確認と監視」を行うことになっている。
イランに履行が求められている合意内容には核分裂性物質生産用の遠心分離機数の制限などが含まれている。
今回の決議はイランにIAEAへの「全面的な協力」を求めている。
返信する
007 2016/04/29(金) 14:32:30 ID:swW8USk70g
008 2016/06/13(月) 23:18:07 ID:sahsEkR6Tg
009 2016/09/19(月) 09:49:36 ID:uh/9yY235U
010 2017/02/19(日) 11:43:07 ID:scpctxDnEA
011 2017/05/28(日) 11:25:38 ID:aug3ixHZaw
イランの通貨単位がトマンに変わる可能性
返信する
012 2017/06/10(土) 11:04:24 ID:XNKplQGw8E
013 2017/10/21(土) 06:22:03 ID:MW/p4StbEA
014 2018/03/03(土) 08:30:49 ID:HjpmgenM2c
015 2018/07/22(日) 08:24:52 ID:gGc5wHw.Ms
016 2018/10/05(金) 00:52:16 ID:VT0HTTPvpw
>革命以前
パーレビ国王はランボマニアだった。
この革命と共にF.ランボルギーニのビジネスと、日本のスーパーカーブームは終焉を迎えた。
返信する
017 2019/10/28(月) 15:58:20 ID:lKtv0uTCVY
018 2020/01/04(土) 06:06:13 ID:9W8GKhA8NY
019 2020/05/16(土) 05:42:01 ID:6fdV6xelCg
行ったことある人からは意外と評価が高いイラン。自動車産業もある工業技術力も高い国。
革命前は古き良きアメリカみたいで、ミニスカートの姉ちゃんがきれいな自由な国ってイメージだ。
返信する
020 2021/12/29(水) 06:13:05 ID:KQo3pFg4QE
021 2022/09/10(土) 03:07:10 ID:a5SOorUJVY
022 2022/09/13(火) 15:42:28 ID:aoeFRCyiuw
>スンニ派とシーア派はなぜ分かれたのか?分かれたきっかけは「ムハンマドの後継者争い」です。
西暦632年、イスラム教の創始者である預言者ムハンマドが、後継者を指名しないまま、亡くなりました。
そこで、共同体の指導者をめぐって分派が生じます。
ここでムハンマドの子孫こそふさわしいと考えたのが「シーア派」。
「後継者は話し合いによって決定するべきだ」と考えた人々のことを「スンニ派」。
返信する
023 2022/09/13(火) 16:24:19 ID:aoeFRCyiuw
古代
紀元前3000年頃の原エラム時代に始まりアーリア人の到来以降王朝が建設され~古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国し~ゾロアスター教をその統治の理念とした。7世紀に入るとサーサーン朝は東ローマ帝国との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。
中世
https://ja.wikipedia.org/wiki...イスラーム教徒のペルシア征服 ペルシア文学が栄える
1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃
1258年のバグダード陥落で、知恵の館(公立図書館)もその膨大な文書と共に灰燼に帰した。
モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれた。
この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者ムハンマドとの血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれた。この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったがティムール朝ではより鮮明にされるようになった。この影響は後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれ
1501年にサファヴィー教団の教主であったイスマーイール1世がタブリーズでサファヴィー朝を開いた。サファヴィー朝の下でシーア派イスラームの十二イマーム派がペルシアの国教となり、現在にまで至るイランのシーア派化の基礎が築き上げられた。
返信する
024 2022/09/13(火) 16:35:26 ID:aoeFRCyiuw
サーサーン朝滅亡後
サーサーン朝はゾロアスター教を国教とした最後のペルシア系民族の国家であり、その滅亡とイスラーム教徒による征服は、ペルシア地域に新たな時代を告げるものだった。イスラーム勢力はペルシアを征服し、その技術や学問を吸収することで急速な発展を遂げた。ペルシアの文明は東ローマの文明と共に絢爛たるイスラーム文明の基となったとされる。イスラーム文明を彩る多くの神学、法学、哲学、自然科学の学者たちはペルシア人であった。アラビア文字で表されるようになったペルシア語は、イスラーム世界東部の国際語として機能し、多くの偉大な文学作品を生み出すことになる。
一方でゾロアスター教は国教から二等宗教へと転落し、信者にはジズヤの支払いをはじめとしてさまざまな差別待遇がかされることになった。ゾロアスター教徒の数は徐々に減少し、イスラーム教徒の圧迫を嫌った一部の信者は地理的・文化的に近いインド亜大陸へと亡命し、この人々の末裔が現在のパールシーであるとされている。著名なパールシーの末裔:フレディ・マーキュリー
返信する
025 2022/09/13(火) 16:39:54 ID:aoeFRCyiuw
026 2022/09/18(日) 11:05:44 ID:cRj1LpTapU
マスジェデ・ソレイマーン
中東における最初の近代的掘削により石油が発見され、1909 年に英国はAnglo-Persian Oil Company ( APOC ) を設立
1935年、レザ・シャー・パフラヴィが外国に対し、ペルシャをイランという固有名で言及するよう正式に要請し、APOCは「Anglo-Iranian Oil Company」(AIOC)と改名
1941 年 8 月、連合国である英国とソ連 は、油田を確保しソ連への安全な供給ルートを開くためにイランを侵略占領しました。ペルシャ回廊は、400 万トンを超えるアメリカのレンドリースおよびその他の物資だけを送りました。
第二次世界大戦後、中東ではナショナリズム感情が高まり、最も顕著な例はイランのナショナリズムでした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Iranian_nationalis... 1951 年 3 月後半、イラン議会であるマジュリスは、アングロ・イラニアン石油会社 (AIOC) とその持ち分を国有化することを可決しモハンマド・モサッデクを首相に選出。→ アーバーダーン危機
返信する
027 2022/09/18(日) 11:09:51 ID:cRj1LpTapU
ソビエト連邦の南側に位置するという地政学的理由もあり、西側諸国の国際戦略のもとで
>>16はアメリカ合衆国の援助を受けるようになり、脱イスラーム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。
1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を推し進めた
返信する
028 2022/09/18(日) 11:28:14 ID:cRj1LpTapU
が、宗教勢力や保守勢力の反発を招き、イラン国民のなかには、政府を米傀儡政権であると認識するものもおり
>>16は自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。
1978年1月、
>>16によって国外追放を受けパリに亡命していた反体制派のホメイニ師を中傷する記事を巡り、聖地ゴムで暴動が発生。その暴動の犠牲者を弔う集会が、死者を40日ごとに弔うイスラム教の習慣と相まって、雪だるま式に拡大し、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
→イラン革命
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.... 1978年12月、パーレビ王朝打倒のデモがイラン全土で始まった。パーレビ王朝は西欧近代化路線を推進したが、その過程で社会的、経済的な矛盾が噴出、国民の不満が高まっていた。デモは暴動とストに発展し、パーレビ国王は79年1月にエジプトに亡命した。2月には、国外追放され、パリで臨時イスラム教革命評議会を設立したイスラム教シーア派指導者のホメイニ師が帰国し、イスラム革命政府が成立した【PANA=時事】
返信する
029 2023/09/10(日) 12:26:46 ID:iclo5qWNuw
030 2023/10/28(土) 11:34:02 ID:XA7WUsdnsw
031 2023/11/13(月) 19:34:35 ID:gCoMwdme76
[YouTubeで再生]
>>28 パーレビ朝下のイランは脱イスラーム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。
1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を推し進めたが、宗教勢力や保守勢力の反発を招いた。
イラン・イラク戦争1980~1988
この戦争はイスラム教内のシーア派とスンナ派の歴史的対立や、アラブとペルシアの歴史的な対立の構図を現代に復活させたといえる。また、イスラム革命に対する周辺国と欧米の干渉戦争と捉えることもできる。
親米で君主制を行っていたパーレビー王朝による白色革命や古代アケメネス朝ペルシア帝国を称えるイラン建国二千五百年祭典の世俗性を批判していたホメイニーの指導下、周辺のスンニ派のアラブ諸国とは異なる政治体制「イスラム共和制」を敷き、宗派だけでなくて世俗主義や君主制でも相容れないアラブ諸国の警戒感を強めたが、イラン国内の混乱が増し、保守派の粛清のために軍事系統にも乱れがあると見られ、敵対する周辺国にとっては好機であった。
返信する
032 2023/11/13(月) 19:43:46 ID:gCoMwdme76
[YouTubeで再生]
1979年在イランアメリカ大使館人質事件
パーレビ元皇帝とその家族、側近らはカイロに亡命した後、モロッコやバハマ、メキシコを転々とし、メキシコ滞在中、「癌の治療」という名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)しかしこれに対しイランの革命政権は激怒し、アメリカ政府に抗議すると同時に、テヘランのアメリカ大使館前では毎日のように反米デモが行われるようになっていた。大使館の敷地には次々に学生と暴徒たちが侵入し・・・
一方、イラクでは1979年当時大統領に就任したサッダーム・フセインは、第四次中東戦争の英雄から一転イスラエルとの和平により、前年1978年のバグダッドでの首脳会議によってアラブ連盟を追われた、エジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領に代わってアラブの盟主となって、古代メソポタミア文明の栄光を蘇らせる野望を抱き、アラブ帝国の再興を掲げるイラク・バアス党を反対派の粛清で掌握して独裁を確立した。石油危機で高価になった原油の輸出で得た潤沢な資金を投じた積極的な軍備拡張でイラクは中東最大・世界第四位の軍事大国となり、自らがパーレビー王朝と結んでいたアルジェ協定 (1975年・添付動画参照) をテレビの前で破り捨て、イランの重要な油田地帯でかつてメソポタミアからの侵略を何度も受けていたフーゼスターン州を「アラビースターン」と呼んでアラブ領土の失地回復という大義名分でイラク領への編入を目論んだ。
返信する
033 2023/11/13(月) 20:03:37 ID:gCoMwdme76
[YouTubeで再生]
イランアメリカ大使館人質事件によって両国の関係は決定的に悪化した。
イラン・イラク戦争ではスカッドの標的となり、度重なる空襲もあり甚大な被害を出した。同時にテヘランには難民が集まり、混乱をきたした。ソ連式の集合住宅が無計画に作られ、テヘランはさらに歴史的建造物を失った。
1986年イラン・コントラ事件(添付動画)
は、米レーガン政権が、レバノンでシーア派テロリスト集団に捕らえられているアメリカ人の解放を目的としてイランと裏取引をした上に、アメリカ国家安全保障会議から同国へ武器を売却し、さらにその代金をニカラグアの反共右派ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。
1985年8月に、アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。
人質を救出する為、共和党のロナルド・レーガン政権率いるアメリカ政府は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦っていたものの劣勢であったイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束した。この様な状況下でのイランへの武器の輸出の提案は、ヒズボラおよび西欧諸国での爆弾テロを支援したグループに対する影響力を持つイランの歓心を買った。
返信する
034 2023/11/22(水) 01:27:50 ID:i3mNCtrrM.
>>23 ダイナミックなイラン高原の歴史
西アジア全域を支配したアケメネス朝ペルシアの繁栄、そしてゾロアスター教に代表される文化を生み出したことなど独自の歴史を形成してきたが、イラン高原は歴史上、アレクサンドロス大王による征服と、イスラーム教アラブ人の征服、さらにモンゴルの征服という三度の大きな外来勢力の支配を受け、それらの文化の影響を受けている。そのダイナミックな歴史がまた独自のイラン文化を生み出してきた。
○古代イラン諸王朝:エラム → メディア → アケメネス朝 → アレクサンドロス帝国 → セレウコス朝 → パルティア → ササン朝
○イスラーム化以後:イスラーム帝国 → アッバース朝 → ブワイフ朝 → セルジューク朝 → イル=ハン国 → ティムール帝国 → サファヴィー朝 → カージャール朝 → パフレヴィー朝 → イラン=イスラーム共和国(現在)
https://bbs58.meiwasuisan.com/world/1531005573/023...
返信する
035 2023/12/15(金) 18:34:23 ID:sLHxvv9hvg
>>23 フレグ・ウルス
https://bbs58.meiwasuisan.com/world/1575597061/02... フラグの西アジア遠征で1258年にバクダードを占領してアッバース朝を滅ぼした段階では本国のモンケ=ハンは健在であったがその後急死し1260年にフビライとアルクブケがともにハン位についた知らせを受けフラグがカラコルム帰還をあきらめて西アジアにウルス(国家)を建設することを決意したことをもってイル=ハン国成立年とする。フラグはカラコルムに向かう一方、部下のキトブカにさらに南下を命じ、キトブカは同年中にダマスクスを攻略し、さらにエジプト進出をめざしたが、マムルーク朝のバイバルスとのアインジャールートの戦いに敗れ、モンゴル軍の西アジアでの侵攻はとまった。フラグの次はその子アバガが第2代ハンとなり、1270年にチャガタイ=ハン国のバラクがホラーサーン地方に侵攻したのを撃退して、ウルスとしての地位を確固たるものにした。その後現在のイランを中心に、イラク、シリアを支配し、エジプトを本拠とするマムルーク朝と対立した。
https://bbs58.meiwasuisan.com/world/1531005573/03... 1278年には小アジアのルーム=セルジューク朝を属国とした。また北方のキプチャク=ハン国とはアゼルバイジャンの豊かな平原やコーカサス地方の領有をめぐって対立した。そのような国際情勢のもとで、アルグン=ハンはラッバン=ソウマというネストリウス派キリスト教徒を、ビザンツ帝国、フランス、イギリス、ローマ教皇のもとに派遣している。その後もイル=ハン国のハンはたびたびローマ教皇やフランス王に使節を送っている。
返信する
036 2023/12/18(月) 10:44:40 ID:IJsN3003js
イル=ハン国はモンゴル人の支配する地域に主としてイラン人が居住しイラン人にとっては異民族支配を受けることとなったが、イラン人は高い文化的伝統を持っていたので文化的には次第にイラン化が進み、第7代のガザン=ハンの時1295年イスラーム教(スンナ派)に改宗した。ガザン=ハンはイラン人宰相ラシード=アッディーンを登用しイラン化を進めイラン=イスラーム文化を開花させることとなった。チンギス=ハンによる建国からすでに90年が経過し広大な世界帝国を形成したモンゴル人であったが、とくにフラグの大遠征によってイランの地にやってきて定着したイル=ハン国の支配者は自分たちの歴史や東方の元との関係などについてわからなくなり始めていた。そこでガザン=ハンはモンゴル帝国の歴史を明らかにしてその自覚を高め同時にフラグの子孫としての自己の支配の正当性を明らかにしようと考えラシード=アッディーンに歴史の編纂を命じるとともに自らも口述させたのが『集史』である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%8F%B... 1335年第9代のアブー=サイードが宮廷内で皇后に殺害されるという事件が起きフラグの血統が途絶えた。有力集団はそれぞれ継承権を主張して争い1353年にはトルコ=モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争するようになって事実上国家としての統合は失われた。15世紀にはティムール朝
https://bbs58.meiwasuisan.com/world/1575597061/03... に吸収されるがイスラーム化したモンゴル人の一部はイラン高原やアフガニスタンの草原地帯で遊牧生活を続け現在もアフガニスタンではハザラ人と言われ少数派を形成している。
返信する
▲ページ最上部
ログサイズ:38 KB
有効レス数:44
削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
海外掲示板に戻る 全部
次100 最新50
スレッドタイトル:イラン
レス投稿