オランダの植民地支配が1942年の日本軍の東インド一帯への侵攻によって瓦解し、東インドは日本陸軍の今村均中将率いる軍政下に置かれ、台湾支配のノウハウをインドネシアに応用した。
日本はインドネシア人に対する緩和政策を基本とし、大東亜政略指導大綱にもとづき東インドを大日本帝国領土とする方針を決定した。
同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した。
まず日本は、オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義活動家を解放し、協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、
「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁する等、インドネシア人を差別し弾圧したオランダ人とは異なった政策を取った。
また、日本は1943年中盤以降のアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、
募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。
それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足した。
このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。
インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、日本は1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、
さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。
同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、
8月15日に日本が降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。
返信する