ロシア連邦


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001 2022/02/16(水) 19:44:53 ID:/367capA6c
ロシアは182の民族が存在している多民族国家である。ロシア語が公用語で、各共和国の公用語として以下の28言語がある。
アバザ語、アディゲ語、アルタイ語、アヴァル語、アゼルバイジャン語、バシキール語、ブリヤート語、チェチェン語、チュヴァシ語、エルジャ語、イングーシ語、カバルド語、カルムイク語(Kalmyk Oirat)、カラチャイ・バルカル語、ハカス語、コミ・ジリエーン語(コミ語)、レズギ語、マンシ語、マリ語、モクシャ語、ノガイ語、オセット語、タタール語、トゥバ語、ウドムルト語、サハ語、ウクライナ語、クリミア・タタール語

地方行政区分
地域或いは民族によって区分された連邦構成主体からなる連邦制を採っている。
地域区分は、46の「州」、9の「地方」、3の「市」(連邦市)がある。
民族区分は、22の「共和国」、1の「自治州」、4の「自治管区」がある。
「共和国」は民族区分の行われる地域の連邦構成主体であり、州など地域区分の行われている地域の連邦構成主体は「共和国」に属さない。
それぞれの連邦構成主体の自治権の範囲はそれぞれの連邦構成主体ごとに異なるという特徴がある。

このうちのクリミア共和国とセヴァストポリ連邦市はウクライナと帰属係争中である。

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002 2022/02/17(木) 17:38:32 ID:ZLgz2cxQ2Q
 ロシアを含むスラブ民族は現在のルーマニアのカルパチア山脈周辺を原住地とし、中央ヨーロッパや東ヨーロッパに居住する農業民族でした。「スラブ」という言葉はロシア語では「弱い」という意味ですし、「奴隷」を意味するスレイブの語源はここからだと考えられています。

 もともとのロシア民族の中心地はキエフでした。ここにノルマン人が侵入してきて9世紀の終わりにキエフ大公国が成立し、ドニエプル川の水利を利用して経済を発展させ、南の東ローマ帝国との交易関係を打ち立てました。10世紀終わりのウラジーミル聖公の時代に最盛期を迎え、東ローマ帝国の皇帝の妹を妃に迎えるとともにキリスト教を国教として導入しました。

 ウラジーミル聖公の死後、親族間の争いで公国は弱体化し、これに十字軍遠征とそれに伴う地中海貿易の活発化によるドニエプル川経由交易の衰退が追い打ちをかけ、キエフは衰退し、人々はノブゴロドやモスクワに移住していきました。

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003 2022/02/17(木) 17:58:27 ID:ZLgz2cxQ2Q
 そして1240年にモンゴル軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は滅亡しました。
モンゴルによるロシア支配の期間は2世紀半に及び、「タタールのくびき」と呼ばれてロシア人は悪いイメージをもっています。しかしながら、征服後のモンゴルは人口も少なかったことからルーシの諸侯を使った間接統治を行い、納税と軍役さえ行えば、政治的忠誠と軍事的方向を条件として「本領安堵」をしました。そして東西交易はモンゴルという大帝国の出現により栄え、その恩恵はルーシの地にも及びました。またモンゴル人は宗教にも極めて寛容でした。後のロマノフ王朝はモンゴルの庇護下でルーシの最高の地位とされたウラジーミル大公の地位を独占してゆき、最終的にはモスクワ大公と呼ばれるようになります。1326年には全ルーシ最高の聖職者であるキエフ府主教をモスクワに迎え、精神的にもキエフに代わってルーシの中心になって行った。彼らが次第に勢力を拡大していく一つの遠因がモンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたからであり、一説によれば実はこの時代がロシアの歴史上もっとも税負担が低い時代だったと言われています。

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004 2022/02/17(木) 18:02:23 ID:ZLgz2cxQ2Q
モンゴル帝国が去った後の東方への拡大
 1380年のクリコヴォの戦いでモンゴル軍を破り「タタールのくびき」からの脱却の第1歩が踏み出されましたが、モンゴルへの臣従をモスクワ大公国が最終的にやめたのは1480年のウグラ河畔の対峙の時からでした。
 最初に述べたようにロシア人の本質は農耕民族であり、領土を拡大しようとする動きに欠け、地方の大公国という地位に甘んじていました。ところが15世紀の終わりにモンゴル支配から独立してみると、ロシアの東側にはモンゴルが去った後の広大な権力の真空地帯が残されていました。ここから16世紀半ばのイェルマークの探検にみられるようなロシアの東方への進出が始まるのです。ロシア人はコサック(逃亡農民や没落貴族からなる軍事協同体)を先頭に毛皮を求めてウラル山脈を越え、オビ川などの大河を伝って北極海や太平洋に進出しました。1652年にはイルクーツクが建設されるなどロシア帝国はシベリア全土を管理し、更にラッコやキタオットセイを求めてアリューシャン列島から千島列島に向かい、アラスカに進出して露米会社を設立するなど、17世紀から19世紀にかけてロシアは世界最大の毛皮供給国となりました。
 このようにロシアが現在のような世界一広大な領土を得るに至ったのは、①モンゴル帝国による征服で東方や東西交易に目が開かれたこと、②モンゴルの滅亡後東方に権力の真空地帯が出現したこと、そして③16世紀から18世紀にかけて極めて貴重な資源であった毛皮を求めてロシア人が東へ移動していったこと、が主要な原因だったのです。

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005 2022/02/17(木) 18:25:58 ID:ZLgz2cxQ2Q
英国との欧州覇権争いとポーランド分割
1533年からイワン4世(雷帝)がモスクワ大公に即位し、1547年には初めてツァーリの称号を用いました。彼にはモンゴル王朝の血も入って
またオスマン帝国と開戦して黒海北岸やクリミア半島を獲得し、ポーランド分割を3度行いました。その結果最終的に1795年にポーランド王国は消滅

ロシアのユダヤ人 ポーランド王が商工業の育成のために招聘したユダヤ人が13世紀から多数ポーランド王国に移住

米国独立を助けたロシア 南北戦争でリンカーンを助けたロシア 

ロシア革命に導いたバクー油田開発
油田で働く労働者の環境は劣悪で、1905年に大規模な労働争議がおこりましたが、この争議を指導して名を挙げたのがスターリンですし、ロシアが日露戦争に踏み切ったのは、この大争議から国民の注意をそらしたかったからだとする説もあります。

レーニンはロシア人ではない
モンゴル系のカルムイク人とトルコ系のチュバシ人の混血で、カルムイク人はかつては現在のモンゴルの西部に住んでいたのですが、チンギス・ハーンに追われて西に移動し現在はカスピ海の西北岸に約30万人の自治共和国を作っていて、チベット仏教を信仰しています。

以上>>2-4ソース 語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係 https://cigs.canon/article/20200602_6441.htm...

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006 2022/02/22(火) 11:59:23 ID:K8GZgLztho
ノーメンクラトゥーラ(номенклату́ра)
とは、ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉。また転じて、共産党単独支配国家におけるエリート層・支配階級や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」とも呼ばれる。

ソビエト連邦は階級の存在しない社会であることが建前とされたが、実際の統治はソビエト連邦共産党による一党独裁制度であり、政治に携わる人物は全て党の任命と承認を受けた人物である必要があった。そのため党が役職と役職に就く候補者の名前を一覧表にして用意するシステムが行われた。この仕組みはウラジーミル・レーニンの時代にすでに萌芽があり、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンは重要人物を「товарищ картотеков」(同志キャビネット)としてリストアップしていた。スターリンはこのリストを役職配分に活用し、やがて公式な制度となった。

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007 2022/02/22(火) 13:05:19 ID:K8GZgLztho
ソビエト社会主義共和国連邦(露:СССР、英:USSR)1922 - 1991
構成15共和国

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008 2022/02/22(火) 13:21:32 ID:K8GZgLztho
独立国家共同体(CIS)
ソ連構成15か国のうちバルト三国を除く12か国(発足当初は10か国)によって結成されたゆるやかな国家連合体。
当時の欧州共同体 (EC) 型の組織をモデルにしたが、独自の憲法や議会は持っていない。

ソ連書記長ゴルバチョフは連邦を構成する各共和国に大幅に権限を委譲する新連邦条約を1991年8月20日に調印する予定であったが、
その前日の8月19日、これに反対する8人のメンバーからなる国家非常事態委員会によるクーデターが勃発する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A38%E6%9C...

このクーデターは数日で鎮圧され、復帰したゴルバチョフは再度新連邦条約の締結をめざしたものの、ソ連政府の威信低下はもはや明らかであり、各共和国でも完全独立論が台頭するようになった。それでも11月にはいくつかの共和国が条約に調印し、「主権国家連邦」の発足が決定したものの、有力共和国のひとつであるウクライナ・ソビエト社会主義共和国が12月に国民投票を行い、90%以上の賛成を得て完全独立を決定すると、ソ連の崩壊は決定的となった。→CIS

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009 2022/02/22(火) 13:49:39 ID:K8GZgLztho
CIS加盟各国および西側諸国にとって最大の懸案は、各地に置かれた膨大な軍事施設、戦略核、弾道ミサイルであった。
特に核戦力がベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンによって大量に保管され~また経済面においては、ルーブル圏の維持が焦点となっ

1994年になると、それまで分離傾向が目立っていた加盟各国に統合の動きが現れ

ジョージア、ウズベキスタン、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバはロシアから距離を置く政策を採り、1999年にウズベキスタンも参加し、GUUAMと呼ばれるようになったが、2005年にウズベキスタンは脱退し、残った4か国は2006年にこの組織を「GUAM 民主主義と経済発展のための機構」へと改称した。これらの国は、2006年7月のCIS首脳会談に欠席している。

これに対し、ベラルーシ、カザフスタン、タジキスタン、キルギス、アルメニアはロシアとの緊密な関係を保ち、アルメニアを除く5か国で2000年10月ユーラシア経済共同体 (EurAsEC) を結成した。こうしてCIS内に、ロシアを中心とする統合派と、ウクライナやジョージアなどからなる反統合派の2つのグループが成立することとなった。

2000年にウラジーミル・プーチンがロシア大統領となると、周辺国との連携を強化しようと試みるが、対テロ戦争・・・
この結果、ジョージア(バラ革命)、ウクライナ(オレンジ革命)、キルギス(チューリップ革命)で独裁政権が倒れて民主化が達成された。

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010 2022/02/27(日) 13:54:17 ID:j9XItWNcl.
7連邦管区
プーチン政権の進める中央集権化計画の一環として、2000年に署名された大統領令に基づき設置された
2010年1月19日:南部連邦管区から北カフカース連邦管区を分離・設置→8連邦管区化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%82%A6%E7%AE%...

共和国は、ロシア民族以外の民族が郷土としている地域に建てられている。

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011 2022/02/28(月) 21:56:54 ID:jt//P7IFn2
天然資源 
ミール鉱山で産出された342.5カラット(68.5g)のダイヤモンドは世界最大の一つ
ロシア金鉱床 コルィマ鉱山 スホイ・ログ

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012 2022/02/28(月) 22:23:57 ID:jt//P7IFn2
旧ソビエト連邦およびロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシアSFSR)では、
ナーツィヤ(民族)、ナロードノスチ(亜民族)、プレーミャ(種族)という民族集団の規模や自立度の階層に応じて三段階の民族自治体があり、
段階が下がるにつれて自治権は小さくなっていた。
 国民国家を形成できる規模とまとまりの民族(ナーツィヤ)による共和国(ソビエト連邦構成共和国、SSR)や自治共和国(自治ソビエト社会主義共和国、ASSR)、国家を持つには至らないまとまった民族(ナロードノスチ)による自治州(AO)、そして先住の小さな民族(プレーミャ)による民族管区である。
民族管区は、人口が少なく国語を形成するほどの自立度には至らない規模の、北方の少数民族などの住む地域に置かれた。

1977年のソビエト連邦憲法の改正では、自治を強調するために「民族管区」から「自治管区」(autonomous okrug)へと名称を変更

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013 2022/03/01(火) 16:48:44 ID:x4dTEr.U56
1917年ロシア革命後のソヴィエト体制は、帝政ロシアのレジームと深く絡みあったロシア正教会を完全消滅させるべき「遺物」であると考え、ロシア正教会の殲滅を目指し多くの聖職者、信者が処刑され、あるいは流刑された。その結果、1939 年の時点で逮捕されずに教区に留まった高位聖職者は4 名のみとなった。

しかし、第二次世界大戦が始まると宗教弾圧は緩和の方向へ向う。これには、ロシア正教会が「ソ連内部の組織的な強化と発展に関るすべての問題について全面的な政府支持」にスターリンが期待を寄せた背景があった。戦中、戦後の社会では戦争の混乱ともあいまって、「宗教復興」がかなり進んだといわれる。

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014 2022/03/01(火) 16:51:30 ID:x4dTEr.U56
フルシチョフ~スターリン批判 1959–1964 年に熾烈を極めた「反宗教運動」はその代表的なもののひとつである。この弾圧はフルシチョフ失脚後、やや緩慢になったものの、ロシア正教会が被った損失が回復されることもなく、その組織的腐敗を招いた。体制はロシア正教会の影響力に対する「病的なまでの恐怖心」を窺わせるほどに弾圧の手を緩めぬまま、教会組織の骨抜きを試みたのである。この運動には、大きく2 つの要因が挙げられる。第一に、農民や労働者階級の内部でのロシア正教の影響力増加に対する危惧があった。第二に、1920 年代のイデオロギーとスタイルを取り戻そうとしたネオ・コミュニストのロマンティシズムが働いた。 

フルシチョフの失脚と共に、激しい反宗教運動は終わりを告げたものの、それ以降に教会の損失を回復するような政策が採られたわけではなく、抑圧は依然として存在した。1950 年代末から1980 年代末までの30 年にわたる一貫した反宗教政策によって、国内政治力、あるいは組織としての正教会は壊滅、腐敗、分裂状態に陥った。その一方で、多くの人々は宗教心を容易に放棄しなかったことがしばしば指摘される。

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015 2022/03/01(火) 20:32:25 ID:x4dTEr.U56
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テングリ信仰
ユーラシアの草原に由来する 突厥・匈奴 の宗教であり、民俗シャーマニズムに基づく、帝国レベルで一神教であり、一般に天空神テングリを中心としています。
ソ連崩壊後、中央アジア(キルギスタンとカザフスタン)およびロシア(タタールスタン、バシコルトスタン)のトルコ諸国の知識人の間で提唱・実践され、ブリヤート共和国、サハ、ハカシア、トゥヴァ、およびシベリアの他のチュルク諸国で組織的な復活が起こっています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tengris...

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016 2022/03/03(木) 01:22:59 ID:tMuccDKXV6
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ロシアは 「マスキロフカ」と呼ばれる教義の下で、何世紀にもわたって軍事的および政治的対決でこのアプローチを受け入れてきました。
この言葉は「マスキング」を意味し、不実表示に完全に依存する戦術にふさわしい名前です。
Maskirovkaは、ウラジーミルプチン大統領を含む多くのロシアの指導者が、敵を誤解させ、彼らの強さを誇張し、彼らが何をしたか、何をしていないかについて嘘をつくために長年使用してきた陰湿な戦略です。歴史家は、クリコヴォの戦いで、ドミトリー・ドンスコイ王子と5万人のロシア兵が、15万人のモンゴル戦士のいわゆる黄金の大群を打ち負かした1380年までこの戦略をたどっています。マスキロフカのダークアートに熟練した人々が

かつてウィンストン・チャーチルが述べた言葉に、「ロシアの行動は謎の中の謎に包まれた謎だ。しかし鍵がある。それはロシアの国益だ」

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017 2022/03/10(木) 22:50:04 ID:og5M/cI6Jk
ロシア語には全く違った意味合いを持つ2つの「ロシア人」という単語があり,現在のロシアでは両者は明確に区別されています。
 ロシア人(男) = Русский [ルースキー] 民族名としてのロシア人(ロシア民族のみ)
 ロシア人(男) = Россиянин [ラシヤーニン] ロシア国民としてのロシア人(多民族国家ロシアを構成する全民族)

このうち,後者の「ラシヤーニン」は帝政ロシア時代から使われていた単語でしたが、ソ連時代には死語となり
「ソビエト国民」(Советский народ [サヴェーツキー ナロート])という言葉に取って代わりました。

ところが,ソ連解体後は再び「ソビエト国民」に代わる言葉「ロシア国民」として復活した単語です。
2002年10月,2010年10月実施の国勢調査による民族別人口が公表され,ロシア国民=「ラシヤーニン」を構成する各民族の人口を伺い知ることが出来ました。
http://dvor.jp/nationalities.ht...

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018 2022/03/11(金) 10:26:05 ID:FwwXygNR1o
ユーラシア主義 (反西洋主義)
ロシアはアジアにもヨーロッパにも属さず、地政学的概念である「ユーラシア」というものに属することを主張する。
1920年代に非ソビエト系亡命ロシア人の間で発展したこの運動は、ソ連崩壊、わずかな復活を遂げました。

ユーラシア人が信じていたロシアの人々は、スラブ民族に還元することはできません。
ユーラシア人によると、ロシア人が国家のイデオロギーと団結する能力を採用したのはモンゴル人からだったので、モンゴル・タタールのくびきはロシアにとって恩恵でした
https://www.ng.ru/ideas/2019-04-03/5_7547_eurasi...

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019 2022/04/05(火) 15:13:54 ID:wAIqx/tao2
ゴプニク達は頻繁に政治的な思想としてロシア民族主義やパン・スラヴ主義を唱えており、さらには左翼や極右のゴプニクまで存在する
一般的にゴプニク達は強い反西側的な思想を持っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%97%E3%83%...

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020 2022/04/25(月) 20:38:12 ID:0H0pd/NtSU
なぜレーニンは戦前の演説でウクライナ国の創造者になったと思いますか?そしてなぜ彼はプーチンの批判の対象になったのですか?
―プーチンは常にソビエトプロジェクトに反対してきました。「ソビエト連邦の死を後悔していない、彼には心がない」
私たちの仲間の市民、私たちの親戚、先祖など、膨大な数の人々がソビエト連邦に住んでいました。多くの、特に年配の人々にとって、ソビエトプロジェクトの完全な拒絶は彼らの人生が無駄に生きていたように思われたことを意味しました。しかし、プーチン帝国にとって、この悲劇はわずかに異なる意味合いを持っていました-彼にとって、それは大きな共通のスペースの喪失、大きな統一目標、世界の多くの人々が手を差し伸べている世界のリーダーの地位でした。 彼にとって重要なのはソビエトの過去の共産主義的要素ではなく、彼はそれを軽蔑して扱っているが、ソ連が果たした世界的指導者の役割である。
 レーニンは、国家には民族自決権があると主張したからです。ソビエト国家の建設における中心的な考えの1つは、その中の人々が自発的に団結し、自発的に去る権利を持っているという考えでした。国と領土がランダムに作成され、時には隣人の以前の領土が含まれるというボルシェビキのアプローチは、そのような領土が新しい独立した州になってしまうことを意味しました。プーチンによれば、このようにしてロシアの土地をロシアの住民と奪い取り、独立したウクライナが生まれた。この論理では、領土はロシアから奪われ、ロシアは何も奪えませんでした。https://meduza.io/feature/2022/04/25/eta-voyna-p...

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021 2022/04/26(火) 17:50:02 ID:.cV5V7tgyA
ロシア人類学の研究史にあって、かつて経済・文化類型論と呼ばれる生業適応理論があった。そのなかで「大河川流域の漁撈民」という適応類型があり、近代文明到来以前のシベリアの人類史にあって、人間集団が大河川流域に居住した場合、漁撈による食料生産と魚を中心とした食文化による生業適応が形成されうるということが指摘されている。そこで重要なのは、この生活パターンにあっては、農耕の実施とは無関係に、定住が可能とされたことである。なぜなら捕獲された魚は干されるか、凍土の天然氷室において貯蔵可能となり、寒冷地という気候条件のなかで年間を通して安定した食料となったからである[Левин и Чебоксаров 1955 : 6, 佐々木 1991]。この類型が考え出された背景には、同じ民族集団であっても異なる生業適応が見られるのはなぜか、という問いであった。さらに多様な生業活動を類型化することでシベリアにおける人類史において実現した生業適応のパターンの全体像を展望できるという意義もあった(注 11)[高倉 2008]。

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022 2022/04/29(金) 17:38:43 ID:8aoGATvz.2
[YouTubeで再生]
2020年7月8日ラトビアのネオナチMPはロシアの分裂の地図を提示しました
ロシア連邦の土地を隣国に分割するという夢は、アレクサンダー・キルシュテイン Александра Кирштейнса を長い間心配してきました。
https://eadaily.com/ru/news/2020/07/08/latviyskiy-...

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