メコン地域


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001 2019/08/03(土) 22:59:57 ID:7K1px9AxFU
メコン(タイ語由来)川は、チベット高原に源流を発する東南アジア最大の川。約4200km。下流にメコンデルタ(大米作地帯)を形成し南シナ海に抜ける典型的な国際河川
メコン地域とは「陸のASEAN」とも呼ばれ主に、ベトナム・カンボジア・タイ・ミャンマー・ラオスの5か国を示す。
これらの5カ国は,「メコン地域諸国」と呼ばれ、仏教国であることでも知られており
5カ国の総面積は約194万平方キロメートル(日本の国土面積の約5倍),総人口は約2億4000万人にも上ります。
成長著しいアジアの中でも,とりわけ将来の可能性に富んだ地域として,今後の発展が多いに期待されています。
画像ソース https://monoist.atmarkit.co.jp/mn/articles/1407/17/news002.ht...

近年メコン川上流の中国雲南省、広西チワン族自治区を含めた「大メコン圏(GMS)」といった呼称もある
https://www.jetro.go.jp/biznews/2017/10/fbda9a9ea369d5...

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022 2025/01/09(木) 04:23:03 ID:lss48PpKzM
クメール王朝 802年 - 1431年(アンコール王朝とも)
9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアのもととなった国であり、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%83%...
12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世の時代に最盛期を迎え、現在のタイ東北部、ラオス、およびベトナムのそれぞれの一部をも領有していた。ジャヤーヴァルマン7世はそれまでの王が掲げていたヒンドゥー教ではなく、仏教を信仰し、アンコール・トム(ノーコー・トム)を始めとする一連の仏教寺院を建立した。また、灌漑設備を建設して農業の振興をはかり、強大な勢力となった。

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023 2025/01/09(木) 04:28:55 ID:lss48PpKzM
>>22 ジャヤーヴァルマン7世が死去して激しい後継者争いが行われた結果、クメール王国は弱体化し、1238年にスコータイ王国、1259年にラーンナー王国が独立した。1283年にクビライのモンゴル帝国が侵攻。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。宗教的には、13世紀に上座部仏教がインドシナを掌握するまで、ヒンドゥー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていた。クメール王朝は寺院建築で莫大な国費を費やした上、宗教をめぐる政争で次第に国力が衰えていった。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っている。ヒンドゥー教徒のジャヤーヴァルマン8世の治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン3世(英語版)が8世を殺害し、王位に就いた。
1351年にアユタヤ王朝が近隣のタイで建国された。1353年、アンコール・トムへ留学していたファー・グム(英語版)を支援し、ラーンサーン王国が建国された。1378年、スコータイ王国がアユタヤ王朝に征服された。14世紀後半からアユタヤ王朝が勃興し、アユタヤ王朝との戦いによって国力は疲弊。1431年、アユタヤ王朝が侵攻し、クメール帝国の首都アンコール・トムが陥落した。

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024 2025/01/09(木) 04:43:03 ID:lss48PpKzM
1431年の首都陥落の後、当時の王はスレイ・サントーに首都を移転
しかし、長くは定着せず、プノンペン、ロンヴェク、ウドンと次々に遷都。シャム(当時のタイ)やベトナムからの攻撃を受け、国力は衰退の一途を辿っていきました。かつてクメール帝国が支配していた広大な領土も次々と削られていき、シャムとベトナムからの圧力が増していきます。国として独立を保つのも危うい状態が続きました

カンボジアの暗黒時代
アンコール後時代は中世とも呼ばれ、15世紀初頭からフランスによるカンボジア保護領の始まりである1863年までの歴史時代を指す。信頼できる史料(特に15世紀と16世紀)が非常に少ないため、クメール帝国の衰退を明示する具体的な出来事に関して、科学界が一致して認める正当かつ決定的な説明はこれまでのところ提示されていないが、現代の歴史家の多くは、宗教、王朝、行政、軍事、環境問題、生態系の不均衡など、いくつかの明確かつ緩やかな変化がインドシナの勢力交代と一致しており、解釈するにはこれらすべてを考慮する必要があるというコンセンサスに近づいています。

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025 2025/01/09(木) 04:49:05 ID:lss48PpKzM
026 2025/01/10(金) 00:05:22 ID:jF467iZ0e2
>1295年に仏教徒のインドラヴァルマン3世が8世を殺害し、王位に就いた。
世俗権力好きな仏教徒って珍しい
ミャンマーとかタイも仏教系だけど血の気多かった時期もあったし まぁそういうもん

メコン下流域は元々カンボジア人が住んでおり 18世紀まではカンボジア領だった
つまりベトナムが不当占領している状態であり 地域に正当な秩序を打ち立てる義務がカンボジアにはある
https://althistory.fandom.com/wiki/Khmer_Empire_(Great_Empir...

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027 2025/02/06(木) 04:15:34 ID:.MeOylg4cc
東南アジア大陸部の歴史認識とは
1 植民地支配後も部族国家の歴史引きずる
2 タイに複雑な思い持つラオス、カンボジア
3 ミャンマーに対し恐怖の記憶を持つタイ人
4 東南アジアは一つの地域ではない
https://th-biz.com/historical_perceptions_southea...

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028 2025/02/25(火) 20:22:46 ID:LoeWqJPOjU
[YouTubeで再生]
6:30~
圧気発火器
東南アジアにひろく存在した圧気発火器の起源は未詳だが
ドイツの機械技術者であったルドルフ・ディーゼルが東南アジアで使われていた圧気発火器に触れ、ディーゼルエンジンの発明に大きなインスピレーションを与えることになった

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029 2025/04/18(金) 01:47:08 ID:t./j8GBkPc
アミメニシキヘビ

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030 2025/11/26(水) 23:07:55 ID:Skm/G6o9Aw
白い象は インドや東南アジアでは神聖な生き物としてあがめられています。

白象は、タイ(シャム)の古い慣習に由来
伝説によるとタイの王様は気に入らない家臣に対し、神聖な「白象」を贈り物として与えることがありました。家臣はその神聖な動物を敬い、手厚く世話をしなければなりませんでしたが、白象は働きに使えず、維持費(餌代など)が莫大にかかったため、最終的にその家臣は破産に追い込まれた、という話に基づいています。この故事から、「所有者に過大な負担を強いるだけの、役に立たない高価なもの」という意味で「白象(White Elephant)」という言葉が定着しました。

インドにおける白象の扱いは神聖な存在で古くから富、繁栄、幸運と結びつけられてきました。 統治者にとって白い象を所有することは、権力と神の加護の証であり、富と地位の象徴でした。白い象は富をもたらすと信じられており、単なる負担とは見なされませんでした。結論としてインドでは「負担」や「無用の長物」といったネガティブな文脈では捉えられていませんでした。

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033 2025/12/10(水) 09:27:20 ID:yLEBs/aqNM
帝釈天(839年)
東寺講堂の国宝帝釈天半跏像
白象に乗り、金剛杵を持つ

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034 2025/12/13(土) 23:33:10 ID:eOVT9mShdY
東南アジアの華僑
https://bbs16.meiwasuisan.com/history/1677006071/084-08...
華僑が最も多く住んでいるのはタイとされ、それにマレーシアが続く。
東南アジアの華人社会は出身省や言語グループによって構成が異なり均一ではない
老華僑は福建省や広東省といった南部沿岸地域が主流だったが、1970年代以降の新華僑は北方語(マンダリン)系統をルーツに持つ

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035 2025/12/13(土) 23:40:38 ID:eOVT9mShdY
華人に同化を求めたタイ
タイは華僑人口が最も多い国とされるが、そのタイで華僑はあまり目立つ存在ではない。それは1930年代に華人に対して強制的な同化政策が行われた結果である。漢字の使用を禁じ、名前もタイ風に改めさせた。これは、タイで立憲革命が行われた時期にナショナリズムが高揚したためである。1930年代の中国は、日本や欧米の侵略によって大きく乱れていた。そんな時期にタイは華人に対して、タイへの同化を求めたのだ。タイに中華街を作ることや、入り口に漢字を書いた門を立てることさえ禁止した。そのため、タイの華僑が自分は華僑だと名乗るケースは少ない。ほとんどがタイ人との混血を重ね、タイ社会に同化している。タイは「微笑みの国」と呼ばれるが、実際は「外交が上手な国」でもある。中国が混乱し弱体化していた時代には、華僑に同化を求めた。

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036 2025/12/13(土) 23:43:40 ID:eOVT9mShdY
>>35
しかし21世紀になって、中国が米国に次ぐ超大国になると、華僑に対する態度を一変させた。現在のバンコクには中華街があり、そこには漢字で書かれた門も存在する。華僑の多くは経済的に成功し、タイの王族と姻戚関係を結ぶ例も少なくない。近年のタイ政局を語る上で欠かせない、黄色シャツと赤シャツの対立も、この華僑と王族の関係を踏まえると理解しやすい。タイ王室のカラーは黄色だが、もともと黄色は中国の皇帝のカラーでもある。中国の皇帝は黄色い衣服をまとった姿で描かれることが多い。黄色シャツ派はバンコク周辺に住む富裕層や支配階層を中心に構成され、対抗する北部や東北部の農民は赤をシンボルカラーとしている。赤は共産党のカラーに由来するのだろう。タクシンは王室を中心とした支配層と対立しているが、華僑の末裔であり中華系であることに変わりはない。タイは、華僑との混血が進んだ人々が、古くからタイに住んでいた人々を支配している国、と考えてよいと思う。

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037 2025/12/13(土) 23:50:52 ID:eOVT9mShdY
華僑を追放したベトナム
東南アジア大陸部においてタイと並ぶ大国であるベトナムでは、華僑が置かれた状況はタイと大きく異なる。現在ベトナムに住む華僑は少ない。それはベトナム戦争が終わった1975年に、ベトナム当局が華僑を追い出したからに他ならない。南ベトナム政府関係者やその協力者は小さな船に乗ってベトナムから逃れ、「ボートピープル」と呼ばれ、難破して命を落とした者も多く、その中に多くの華僑が含まれ、香港、マカオの難民収容所の7割はベトナム華人であった。ベトナム戦争当時、南ベトナムには約100万人の華僑が住んでいた。1975年当時のベトナム人口は4,500万人と現在の半分程度だったため、華僑の存在感は大きかった。サイゴンのショロン地区は華僑が多く住む地域として有名だったが、その90%が国外に脱出したとされる。戦争の混乱が収まると華僑は少しずつ戻ってきたものの、その存在感は東南アジア諸国の中では圧倒的に小さい。

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038 2025/12/13(土) 23:53:45 ID:eOVT9mShdY
>>37
タイとベトナムでは、インドネシアやマレーシアなど島嶼部に比べて華僑は目立つ存在ではない。これは先に述べたような歴史的背景に起因する。タイは同化政策、ベトナムは追放という手段をとったが、その対応は対照的である。これは、中国と直接国境を接していなかったタイが中国の軍事的脅威を受けず、華僑に対して穏健な対応をとれた一方で、ベトナムは歴史上、常に中国の脅威に晒されており、国民に反中感情が強かったためと思われる。https://lean-operation.com/media/global/kawashima_2501...

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