
南詔(なんしょう)は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の?海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の王国
?(てん)池地区にまで勢力を拡大し雲南全体の統一に乗り出した南詔は次第に唐と対立するようになった
そこで南詔は雲南西北部に勢力を延ばしていた吐蕃と同盟、754年 唐を全軍覆没。→天宝戦士塚
その後、唐では安史の乱が起こり、吐蕃と南詔は四川南部を攻略。唐の都長安(現・陝西省西安)を一時占領するほどの勢いであった。
(遣唐使同行留学生 阿倍 仲麻呂は国家試験に合格し唐朝において諸官を歴任、最後はハノイの安南都護府に在任し、結局帰国を果たせずに客死した。)
779年、吐蕃・南詔連合軍20万の大軍をもって成都占領を目指したが、すでに国力を回復していた唐軍に撃退された。
この頃、南詔は羊苴?城(現・雲南省大理)に遷都し、大理はこれ以降南詔・大理の定都となった。
829年、長駆して成都を攻略。その後、南詔軍は矛先を南に転じて、東南アジアのビルマ、タイ、ラオス、カンボジアなどを攻め、海の見えるところにまで達したという。
また、ビルマのピューの人々も南詔軍に襲われ、雲南地方に移住させられたという。
859年、時の南詔王世隆はついに皇帝を自称し、国号を大礼国と名乗った。
翌年、南詔軍は中国領ベトナムを攻め、交州(ハノイ)の安南都護府を攻略、おりしも唐は黄巣の乱によってなすすべもなかった。
その後徐々に南詔王室が弱体化、902年宮廷クーデターに遭い、10代164年続いた南詔は滅亡した。
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