イラク共和国
▼ページ最下部
001 2018/07/08(日) 08:19:33 ID:1BZlWD5mY2
西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。
当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。
サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。
これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。
8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。
返信する
002 2018/07/08(日) 08:32:26 ID:TQOHYziAEQ
003 2018/07/08(日) 11:01:22 ID:LnfvGEvvhU
この54℃って気温なのかね
日本のアメダスと同じ測り方なのだろうか?
返信する
004 2018/07/15(日) 06:26:40 ID:3bAz25Sq6o
005 2018/10/05(金) 00:28:37 ID:VT0HTTPvpw
006 2019/08/02(金) 18:20:52 ID:JV/DOFcWv6
007 2020/02/29(土) 02:47:31 ID:iLPDw.LZPY
008 2021/04/17(土) 05:41:50 ID:EEXp7yN00U
岩井大使はイラクを離れるにあたり、寂しく感じるものがいくつかあると言う。
例えば、イラク版のすしともいえる野菜の詰め物「ドルマ」だ。
だが、もうこりごりと思っているものも一つある。
それは「気候」だという。
イラクでは夏の気温がしばしば50度を超えるが、
岩井大使は「ここに来るたび、どんどん暑くなっているように感じている」
「コンクリートの壁や緑地の減少、大気汚染と関係しているのかもしれない」と語った。
返信する
009 2022/05/07(土) 05:31:41 ID:4S8IiecreU
010 2022/05/07(土) 06:44:06 ID:MuvzsBZCnc
さてここで問題です
シュメール文明を興したシュメール人とは
現存する民族では何人に最も近いでしょうか?
返信する
011 2022/05/07(土) 13:28:12 ID:VJFCQ23lhU
日本
アブラハムがシュメール出身
日本でシュメール文字が発見されてたような
天皇家の有名な十六菊花紋は一般的なユダヤ教会で使われる紋章であると同時に、シュメール王家の家紋でもあります。
天皇の尊称は『スメラミコト』であり、スメラは英語ではシュメールと発音しラテン語ではスメルと発音します?
ミコトは王と言う意味です。
明治維新前までは天皇ではなく、スメラミコトと呼ばれていました。維新後は天皇と呼ぶようになりました。
西暦1年の世界人口は3億人。中東の川沿いに余裕で住める。人口密度的に余裕。
返信する
012 2023/02/11(土) 05:39:18 ID:R/0AE6U.dM
013 2023/03/07(火) 20:40:24 ID:ALJfroTbhw
014 2023/10/15(日) 12:43:56 ID:QZXCLAmgi2
015 2023/10/25(水) 23:50:33 ID:nxR2URfE2Q
>>13 紀元前5300年頃~シュメール文明~ウル・ウルク都市国家形成
紀元前2300年頃、異民族のアッカド人(セム系民族)によって都市国家征服
紀元前2150年頃、バビロニアの東北から興ったグティ人(遊牧民)の侵略を受けてアッカド王朝は滅亡・・・
返信する
016 2023/11/15(水) 03:45:14 ID:UgdS3IxpJU
前2100年頃、シュメール人がメソポタミア支配を再建しウル第3王朝
アッカド王朝の衰退に乗じウルのシュメール人軍事司令官ウル=ナンムが建国。約100年しか存続しなかったが、その間、最初の法典の整備が行われシュメール法典が編纂された。また法に基づく行政や裁判が行われていたらしく、膨大な行政、財政、租税、裁判記録などを記した粘土板が出土している。このようなウル第3王朝には「最初の官僚制国家」という位置づけがされている。
ウル第3王朝は5代約100年続いた後、前2004年頃、東方(イラン方面)から侵入したエラム人によって滅ぼされた。
シュメール人の手による法典整備は、その後、イシン王朝(ウル西北のイシンを中心としたシュメール人の王朝)のリピト=イシュタル法典(前20世紀)などを経て、古バビロニア王国のハンムラビ法典につながっていく。ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものであり、世界最古の法典ではない。
返信する
017 2023/11/15(水) 03:53:42 ID:UgdS3IxpJU
前1900年頃、バビロン第1王朝(古バビロニア)を築いてメソポタミアを支配したセム語族遊牧民のアムル人(アモリ人)
前2000年紀前半のメソポタミアに、シリア砂漠から侵入しその中・下流域であるバビロニアを支配して、イシン、バビロン、ラルサなどの都市を形成し、シュメール人のウル第3王朝にかわって次第に有力となり、紀元前1900年頃、バビロンを都にバビロン第1王朝を築いてメソポタミアを支配した。その全盛期の王がハンムラビ王である。 → メソポタミア文明
この王国をバビロニア王国とも言う。彼らの支配はティグリス=ユーフラテス川上流に及び、特に前18世紀のハンムラビ王の時には初めてメソポタミア全域を統一して支配した。彼はシュメール人の法典を継承し、より体系的なハンムラビ法典を制定した。
王は神の代理として刑を行っており、同害復讐法を原則にしている。「目には目を、歯には歯を」・・・
しかしその死後、バビロニアは西アジア全体の民族移動の波にさらされることとなり、小アジアからインド=ヨーロッパ語族のヒッタイトの侵攻を受けた。ヒッタイトはオリエントに初めて鉄器を持ち込んだと言われており、それによって青銅器の時代は終わりを告げることとなった。
返信する
018 2023/11/15(水) 03:59:05 ID:UgdS3IxpJU
カッシートの支配
前1595年、ヒッタイト軍はバビロンを攻撃、バビロン第1王朝を滅ぼした。ヒッタイトはバビロニアにとどまることなく西に戻り、その後は西部山岳地帯からカッシート(民族系統不明)が入り込み、バビロニアを支配した。カッシートは独立した国家ではなく、バビロニア王国を支配した王朝の一つされ、バビロニアの文化や宗教を尊重し、それを継承した。カッシートをバビロン第三王朝ということもある。 バビロニアを支配したカッシートは西側のミタンニやヒッタイト、東側のエラムとの抗争を続けながら、約350年間存続した。その間、前13世紀後半には一時アッシリアに征服されたが、アッシリアが後退したため、ヒッタイトやエジプトとは親交をもつなど「遠交近攻」策をとって王国は存続できた。しかし、カッシートはイラン方面から進出したエラム人によって前1155年ごろに滅ぼされた。このとき、バビロンにあったハンムラビ法典を記した石柱などがエラムの都スーサに運ばれた。その後、バビロニアにはイシン第二王朝など短期王朝が次々と存続し、いずれもバビロニアの伝統を継承したが、西方に台頭したアッシリアに押され、国際社会では低迷した。
返信する
019 2023/11/15(水) 04:04:32 ID:UgdS3IxpJU
アッシリア帝国
オリエントを初めて統一したのはアッシリア帝国で、彼らは前9世紀ごろ戦車と騎兵を駆使してメソポタミアを征服、前8世紀にはバビロニアもその支配下に入り、前728年にはアッシリア王ティグラト=ピラセル3世がバビロニア王も兼ねている。さらに前722年にはイスラエル王国を征服した。前668年にはアッシュール=バニパル王が即位し、首都ニネヴェを建設し、全盛期となった。さらに前663年にはエジプトも併合し、全オリエントを初めて統一することに成功した。
新バビロニア王国
しかしアッシリア帝国の急速な統一事業に対する反発も強く、早くも前613年にはカルデア人がバビロンで自立して新バビロニア王国(カルデア王国)が作られ、翌前612年にはアッシリア帝国を滅ぼしてしまった。その後、オリエントは新バビロニア王国と並んでイラン高原をメディア王国、小アジアをリディア王国、さらにエジプトを加えた四国が併存する時代となった。
返信する
020 2023/11/15(水) 04:44:49 ID:UgdS3IxpJU
前722年、イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた後、ヘブライ人の国家はイェルサレムを都としたユダ王国のみとなった。アッシリアはユダ王国も征服しようとイェルサレムに総攻撃をかけたが、ユダ王国の王ヒゼキヤは「アッシリア軍による長期間のイェルサレム包囲に備えて、イェルサレムの城壁を固め、食料を蓄え、水源確保のため、ギホンの泉とシロアハの池との間に地下トンネルを開鑿して、生活用水を城内まで導き入れることに力を注いだ(前705~701年)。これによって町を包囲された場合でも十分な生活用水を供給できたのである。このトンネルは全長530mに及び、現在もイェルサレムに残っている(Siloam tunnel, Hezekiah's Tunnel)イェルサレムの守りを固めてて抵抗したが、結局はその軍門に下り、アッシリアに貢納する属国として細々と独立を維持することとなった。
バビロン捕囚
最強を誇ったのが新バビロニアのネブカドネザル2世で、彼の時にパレスチナに進出してイェルサレムを占領、ユダ王国を滅ぼしてユダヤ人をバビロンに拉致した。これがバビロン捕囚と言われる出来事である。前586年、ユダ王国が新バビロニアのネブカドネザル王に征服され、住民のヘブライ人がバビロンに連行されて捕囚となった。前538年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを亡ぼしたときに解放された。ヘブライ人はこの民族的苦難の体験を伝えるべく帰国後イェルサレムにヤハウェ神殿を建設、ユダヤ教の信仰を成立させた。
返信する
021 2023/11/15(水) 05:14:50 ID:UgdS3IxpJU
前609年にメソポタミアとエジプトを統一支配していたアッシリアが最終的に滅亡すると、オリエント世界は、新バビロニアのネブカドネザル(ネブカドネツァル)王とエジプト(第26王朝)のネコ王がその覇権をめぐって激しく対立することとなった。その中間にあるパレスチナのユダ王国は両国の間で揺れ動き、最終的な選択が迫られたが、その判断はエジプト側に付くというものだった。それに対して新バビロニアのネブカドネザル王はたびたびユダ王国に圧力を加え、自陣営に引き寄せようとした。また、ユダ王国の王は両国の優劣を図りながら王権の維持を図り、貢納や軍事の負担は民衆を圧迫した。前601年頃、新バビロニアのネブカドネザル軍がエジプト侵入を試み、エジプト王ネコに撃退されたのを見たユダ王国の王ヨヤキムは、新バビロニアに叛旗をひるがえして貢納を停止した。第1回バビロン捕囚 前598年 ユダの王エホヤキン(ヨヤキン)18歳はバビロンの王に降服・・・この時はネブカドネザルは神殿は破壊せず、また属州とすることもなく、属国としてエジプトとの緩衝地帯としようとしたらしい。エホヤキンがバビロンに連行された後、バビロンの王によってその叔父が王位に就けられてゼデキヤとなった。態勢を整え直したネブカドネザルがパレスチナに迫ると、ユダ王国の王ヨヤキムは国内の親バビロン派に暗殺されたらしい。 第2回バビロン捕囚 前586年 ゼデキヤがバビロンの王にそむいて起こった。一般にこの時のことを「バビロン捕囚」と言いイェルサレムは徹底的に破壊され、神の加護の象徴であった神殿にも火がかけられ、ユダ王国は滅亡した。
返信する
022 2023/11/15(水) 05:24:59 ID:UgdS3IxpJU
バビロン捕囚後のパレスチナ
ネブカドネザルはユダの地を属州とし、総督をおいて支配したが、潜伏した反バビロニアの人々の抵抗が続いた。総督暗殺事件が起こると報復を恐れた反バビロニア派の多くはエジプトに亡命した。なおエレミヤ書に依れば前582年に第3回のバビロン捕囚が行われた。イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアは、人々を強制的に分散させ、イスラエルの地には他から入植者を移住させたが、ユダ王国を滅ぼした新バビロニアは、集団としてまとまってバビロンに連行し、またその跡地には他から入植させなかった。そのため、解放された人々が戻ったときには比較的民族としてのまとまりを維持することができた。しかし、かつてのイスラエル12部族の内、バビロン捕囚後も存続できたのはほとんどがユダ王国の中心部族だったユダ部族だった。そのため、バビロン捕囚後は「ユダの民」つまり「ユダヤ人」といわれるようになる。
前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世はバビロンを征服し、翌前538年に勅令を発布し、ユダヤ人のイェルサレムへの帰還と神殿の再建を許可し、さらに戦利品としてバビロンに没収されていた神殿の器物を返還し、神殿再建のための財政援助を約束した。こうして約50年に近い捕囚の生活を終わり、帰還民が続々と出発し、イェルサレムを目指した。(旧約聖書エズラ記) なお、ユダヤ人が戻ったパレスチナの地はペルシア帝国の州とされ(異説あり)、ユダヤ人のゼルバベルが総督に任命され、一定の自治が行われた。ペルシア帝国は宗教的な寛容政策をとり、ユダヤ教などの民族宗教はそのまま信仰を認められた。
返信する
023 2023/11/15(水) 06:03:58 ID:UgdS3IxpJU
アケメネス朝ペルシア帝国は広大な領土に多様な民族と文化を内包する「世界帝国」の典型であった。官僚制度や交通網を発達させ、中央集権的な専制国家であり、高度な文明を誇っていた。楔形文字を使用するなど、オリエント文明を継承するとともに、新たなイラン文明を作り上げ、次のパルティアとササン朝ペルシアに継承される。イラン人のゾロアスターが始めたゾロアスター教を保護し、国教に準ずるような扱いをしたが、他の宗教にも寛容であった。
前334年にマケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征を開始、前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。征服した遠征各地にギリシア人を入植させ70カ所以上にわたりアレクサンドリアを建設、ギリシア文化とオリエント文化が融合しヘレニズム世界を現出させた。中でもエジプトのアレクサンドリアが最も栄えた。前323年にバビロンでアレクサンドロス死去、その後、帝国は後継者たちによって分割され、ディアドコイと言われる後継者たちによる争いによって分裂、本国マケドニアにはアンティゴノス朝マケドニア、メソポタミアからイラン高原一帯にはセレウコス朝シリア、エジプトにはプトレマイオス朝エジプトのいずれもギリシア人を支配者としたヘレニズム三国に分離した。
返信する
024 2023/11/16(木) 23:58:52 ID:xnsRQl5QeY
バベルの塔はエ・テメン・アン・キのジッグラト?
(バグダッドから南に約 90 kmの遺跡)
返信する
025 2023/11/19(日) 02:17:29 ID:Xooq8DTAhs
アルサケス朝パルティア(アルサケス←ギリシア語表記。ペルシア語表記は「アルシャク朝」。中国では安息国)
前3~後3世紀まで、イラン系遊牧民がセレウコス朝シリアから自立し、イラン高原に建国した国家。シルクロード交易を通じて中国では安息国として知られていた。長期にわたりローマと対抗し、しばしばその侵攻を撃退したが、次第に国力が衰え、226年、農耕系イラン人のササン朝に滅ぼされた。
前3世紀にバクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧イラン人パルニ族がこの地に定住、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていた。前247年ごろ、パルティアはセレウコス朝から独立をはたし、さらに前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた。都はいくつかを移動した後、イラン北部のヘカトンピュロスとされた。前2世紀のミトラダテス1世の時、セレウコス朝を圧迫してメソポタミアに進出し、ティグリス川河畔にクテシフォンを建設し、遷都した。紀元後1~2世紀には、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら、東西交易路を抑え、繁栄した。アルサケス朝パルティアの存在はシルクロードを経て中国にまで伝えられる。紀元前から始まっていたローマとの抗争は、一時はローマ軍を破るなどの勢いを示していたが、中間地帯であるアルメニアの支配権を巡る長期にわたる抗争は次第に国力を消耗させ、226年に農耕イラン人のササン朝ペルシアに滅ぼされる。
返信する
026 2023/11/19(日) 02:39:15 ID:Xooq8DTAhs
ササン朝ペルシア 3世紀にパルティアに代わりイラン高原を支配した農耕イラン系国家。ゾロアスター教を国教とし、高度なイラン文明を発達させた
ササン朝は西方のローマ帝国と激しく抗争した。一方東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。
ササン朝のシャープール1世時代は、西方のユダヤ人の中から興ったキリスト教と東方のインドに興った仏教の影響がイランにおよび、イラン本来のゾロアスター教が大きく動揺した時代であった。特にバビロンで活動したペルシア人マニは、キリスト教(グノーシス派)と仏教の影響を受けてゾロアスター教と折衷させた新たな宗教マニ教の教祖となった。5世紀初めには中央アジアに興ったエフタルの侵入を受けて一時危機に陥った。「最後の大王」ホスロー2世(在位590~628)は王位を確定すると、今度はビザンツ帝国の混乱に乗じて小アジアに進出、さらに614年にはイェルサレムを襲撃し、イエスが磔になったという十字架を持ち去った。このササン朝とビザンツ帝国の長期にわたる抗争は、東地中海-レヴァント地方-シリア-メソポタミアを結ぶ東西貿易を衰退させ、その戦乱を避けた商人たちがアラビア半島南部のヒジャースを通るようになり、それがメッカやメディアの繁栄をもたらし、そこからイスラーム教とその国家が台頭することとなる。7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対するジハード/聖戦を展開し~ニハーヴァンドの戦い~651年ササン朝ペルシアは滅亡。以後、イランは急速にイスラーム化
>>1
返信する
027 2023/11/19(日) 03:19:46 ID:Xooq8DTAhs
ムハンマド/マホメット イスラーム教を創始した預言者。
メッカのクライシュ族の一氏族である大商人のハーシム家に生まれ、早くに両親に死別して、叔父のアブー=ターリブに養育される。ムハンマドがまだ商人として活動していた25歳頃、その取引先の一人だった40歳の未亡人ハディージャと結婚した。その後ムハンマドは生涯で9人の妻を持つが、彼がイスラーム教の始祖となるにはこのハディージャの存在が大きかった。40歳ごろの610年、ヒラー山で瞑想にふけっていたところ天使ガブリエルが現れ、神の言葉を伝えられ神の使いとなってその宣教にあたることを決意しイスラーム教を創始した。彼は自らを最後の預言者としてメッカの人々にカーバ神殿の主神アッラーを唯一の神として崇拝し、神の恩寵とそれに対する感謝、喜捨などの善行の義務を説いた。622年にメッカで迫害されメディナに移り、教団(ウンマ)を形成、630年にメッカを征服してカーバを一神教の神殿とした。その結果、諸部族が次々と帰順しアラビア半島の政治的・宗教的統一を果たし632年に死去した。その言行録が『コーラン』で死去後、ウンマを指導するムハンマドの後継者カリフとして初期の改宗者で長老のアブー=バクル※を選出した。これ以後4代のカリフが選出される時代が続き、それを後に正統カリフ時代といっている。しかしやがて誰をムハンマドの正統後継者とするか対立があり、次のウマイヤ家のムアーウィヤがカリフになると教団の分裂が生じることとなる。※ムハンマドの友人で古い同志。ムハンマドの妻の一人アーイシャの父であるのでムハンマドの義父にあたる。
返信する
028 2023/11/19(日) 03:38:49 ID:Xooq8DTAhs
[YouTubeで再生]
ウマイヤ朝 661~750年最初のカリフ世襲制度による王朝。ウマイヤ家がシリアのダマスクスを都として西アジアを支配、さらにその版図を中央アジアや北アフリカ、さらにイベリア半島まで拡大した。しかしアラブ人優位の政策から生まれたイスラームの「ウンマは一つ」という原理と矛盾するアラブと非アラブが対立、ウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現によりイスラーム世界の分裂がはじまり8世紀に非アラブのイスラーム教徒の不満の高まりなどによって衰えアッバース家によって倒された。ウマイヤ家の中で難を逃れた人々は遠く西方に逃れイベリア半島に入って後ウマイヤ朝を建てた。
アッバース朝 750~1258年までアッバース家のカリフ支配が続いたイスラーム帝国。762年に建造された新都バグダードを中心に、8世紀末に全盛期となり、北アフリカから中央アジアに及ぶ広大な領域を支配した。9世紀なかごろから地方に独立政権が生まれ、イベリア半島・エジプトにもカリフが分立した。バグダードでは実権はブワイフ朝の大アミール、セルジューク朝・アイユーブ朝のスルタンに奪われ、カリフ支配は形骸化した。最後はモンゴルのフラグによって滅ぼされた。
返信する
▲ページ最上部
ログサイズ:74 KB
有効レス数:54
削除レス数:2
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
海外掲示板に戻る 全部
次100 最新50
スレッドタイトル:イラク共和国
レス投稿