冊封体制でアジア史を説明するのは日本の学者だけ 八幡 和郎
近代以前の東アジアの外交秩序は中国を中心とする「冊封体制」で成り立っていたという説明を聞かされて信じている人が多い。
しかし、冊封体制という言葉は、中国の歴史教科書には出てこないし、韓国でもほんの少しだ。
「冊封体制論」は日本だけのガラパゴス理解なのである。
1962年に西嶋定生という東大教授が提唱し、媚中ブームに乗って定説化しただけだ。
しかし、中国と周辺国の関係は時代や地域によってさまざまだし、中国の主観的な位置づけが相手に共有されているとは限らず、
また、冊封された国が別の国にも支配されていることも多い。
朝鮮では、新羅が七世紀に日本、百済、高句麗の同盟に圧迫され危機にあったので、唐に対して暦、服装、人名まで唐風に従い
半独立国となる条件で生き延び、さらには、渤海攻撃に参加することで朝鮮半島の大部分を領土として認められた。
明や清の時代には、世子と呼ばれる皇太子は前王が死んでも中国の皇帝から任命を受けるまでは国王ではなかった。
これは、ベトナムや琉球もそうだった。
日中関係では、奴国王、卑弥呼、倭の五王なども、別に中国の皇帝から認められる前から王だったので、
対外関係に有利なので、肩書きをもらっただけで継続的な冊封関係でなかった。
とくに五世紀の倭の五王の遣使の狙いは朝鮮半島の支配権を認めさせるためのもので、
百済に対する支配権を中国が認めなかったから日本から国交を断絶している。
http://agora-web.jp/archives/2018084.htm...
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